信濃の一茶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
前述のように、一茶は帰郷を見据えて文化4年(1807年)7月時の帰郷以降、北信濃に一茶社中を結成するために奔走していた。文化9年(1812年)末の帰郷を前に、一茶社中はかなりの規模に成長していたが、一茶自身は不安を感じていた面もあった。帰郷直後に江戸の夏目成美には、田舎に引っ込んでしまっては流行に遅れてしまうのではないかと、心配する手紙を送っていた。しかし一茶は江戸帰りの宗匠として北信濃一帯の俳諧愛好者たちから敬意を持って迎えられ、その結果として帰郷後も社中は順調に成長し、やがて一茶の不安も消えていく。 一茶は帰郷後もしばらくの間、江戸や房総方面に出かけていた。文化11年(1814年)8月、一茶は江戸に向かい、その足で下総方面、内房方面まで足を伸ばした。この時の江戸行きの主要目的は、一茶の江戸の俳壇からの引退と故郷、信濃への定住を記念した俳文集、「三韓人」の出版であった。三韓人の序文は夏目成美が執筆し、東国を中心とした一茶の師匠、友人、知己ら242名の句が掲載された。この年、一茶が柏原に戻ったのは年も押しつまった12月25日(1815年2月3日)のことであった。 文化12年(1815年)も一茶は8月末に江戸へ向かった。一茶はやはり江戸の他に上総、下総方面の知己を巡り、やはり年も押しつまった12月28日(1816年1月26日)になって柏原に戻った。翌文化13年(1816年)もまた一茶は江戸に向かう。9月に柏原を出発した一茶は、10月には江戸へ出て、その後下総方面に向かった。ところが11月になって悪性の皮膚病にかかり、下総守谷の西林寺でしばらく療養しなければならなくなった。その後、江戸や上総、下総方面を回り、翌文化14年(1817年)7月になってようやく柏原に戻る。なおこの時の江戸、房総方面行きと時を同じくして、文化13年11月に夏目成美が亡くなり、文化14年2月には一茶と親しかった日暮里の本行寺住職の一瓢が伊豆、三島の妙法華寺に移ってしまい、一茶と特に仲が良かった俳人が江戸から居なくなってしまった。このこともあってか、その後一茶は亡くなるまで江戸、房総方面に行くことは無く、一茶は名実ともに信濃の一茶となった。
※この「信濃の一茶」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「信濃の一茶」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。
- 信濃の一茶のページへのリンク