信濃の有力豪族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:16 UTC 版)
承平8年(938年)、平将門に追われ東山道を京に脱出しようとした平貞盛が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と信濃国分寺付近で戦った記録が残されている。このとき貞盛は、信濃国海野古城を拠点とする滋野氏の下に立ち寄っており(旧知の間柄とも伝わる[要出典]が、正確な関係は不明)、滋野氏のみならず小県郡司他田真樹らの信濃国衙の関係者たちも貞盛に加勢したが将門軍に破れたとされる。この当時の滋野氏は信濃国内の御牧全体を統括する牧監であった。 滋野則広の嫡子・重道の代に海野を名乗り、その子の代に根津氏・望月氏に分かれ、以後信濃国小県郡や佐久郡を中心とする名族として栄えたとされ、鎌倉時代には信濃全域から上野国吾妻郡にまで滋野氏流を名乗る支族が広がっていった。また滋野氏流を名乗る諸族のうち、海野氏・根津氏・望月氏は特に「滋野三家」と呼ばれ、滋野党を始めとする嫡流の家柄とされた。 保元の乱・治承・寿永の乱では海野幸親が木曽義仲の家臣として活動し、その子である海野幸氏は源頼朝に認められ有力御家人となり、上野国吾妻郡にまで勢力を拡大した。
※この「信濃の有力豪族」の解説は、「滋野氏」の解説の一部です。
「信濃の有力豪族」を含む「滋野氏」の記事については、「滋野氏」の概要を参照ください。
- 信濃の有力豪族のページへのリンク