三顧の礼
別表記:三顧
三顧の礼とは、目上の者が目下の者のもとに幾度も出向くなどして礼を尽くし、物事を頼む、という意味の故事成語。わかりやすく言うと、上司や年長者が目下の相手を軽んじることなく心から敬意を払って頼みごとをするということである。「三顧」だけでも「三顧の礼」と同じ意味の表現として用いられる。ちなみに「三顧」とは、3回にわたって訪問するという意味である。
三顧の礼は、黄巾の乱を平定し一大軍勢を築いていた劉備が、無位無官かつ大幅に年下の(どう捉えても格下の)諸葛亮を軍師として迎え入れるために、諸葛亮の住まう庵を3度も訪ねた、という故事が由来となっている。
英語には「三顧の礼」に直接対応する表現は特になく、英語で表現するなら「最大限の敬意を払う」という意を汲み show(ing) special courtesy とか with all eagerness のように意訳することになる
さんこ‐の‐れい【三顧の礼】
読み方:さんこのれい
「三顧」に同じ。
三顧の礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/16 00:39 UTC 版)

三顧の礼(さんこのれい)は、中国語の故事成語「三顧草廬」(草庵を三回訪ねる)を日本風に直したもので、目上の人が格下の者の許に出向き、礼を尽くしてお願いをすること[1]。三国時代直前の中国において、劉備が諸葛亮を軍師として迎えるために、彼の家を三度も訪ねたという故事に由来する[1]。単に「三顧」ともいう[1]。
概要
黄巾の乱の鎮圧で関羽・張飛とともに天下に名を揚げていた劉備に対して、諸葛亮は司馬徽など一部の人にのみ名前を知られた存在だった。しかも劉備が40代に対し、諸葛亮は20代であり、明らかな上下関係が社会通念上あるにもかかわらず、それに捉われない応対をしたことから有名になった故事である[1]。
ただし劉備は最初から「三顧の礼」を尽くそうとしたわけではなく、劉備に仕えていた徐庶が友人である諸葛亮を勧めた際に、「将軍が自ら駕を枉げて下さい」と進言したからである[2]。
受容
諸葛亮と劉備の逸話は後世の日本にも影響を与えており、例えば木下藤吉郎が竹中重治を配下に加えるくだりで使われている[1]。
三顧の礼の場所
三顧の礼が行われた場所には二説あり、『漢晋春秋』中の記述の「襄陽城の西方二十里、隆中に住む」に依る湖北省古隆中(襄陽市襄州区)と、『出師の表』中に記述の「南陽に耕す」に依る河南省臥龍崗(南陽市臥龍区)で、双方共に観光地となっている。[3]
画像
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明の画家戴進が描いた三顧の礼
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明の時代に描かれた三顧の礼の様子
脚注
- ^ a b c d e 三省堂編修所 (2016), p. 276.
- ^ 渡邉義浩 (2011), p. 166.
- ^ 諸葛亮孔明が隠遁生活を送っていた“臥龍崗”に位置する『南陽武侯祠』
参考文献
- 三省堂編修所 編『新明解故事ことわざ辞典』(第2版)三省堂、2016年5月。ISBN 978-4-385-13988-3。
- 渡邉義浩『三国志:演義から正史、そして史実へ』中央公論新社〈中公新書〉、2011年3月。 ISBN 978-4-12-102099-4。
関連項目
三顧の礼
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詳細は「三顧の礼」を参照 劉表から新野城(現在の河南省南陽市新野県)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇・于禁の軍を博望坡にて撃破した。しかし、劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかったため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許昌を襲撃するようにという劉備の進言は劉表に受け入れられなかった。 この時期のエピソードとして「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」という話がある(裴松之が注に引く『九州春秋』より)。この事から髀肉之嘆(ひにくのたん)という故事成語が生まれた。 この頃(建安12年(207年))、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操に対抗するためには荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となり孫権と協力して曹操に立ち向かうべしという天下三分の計を説かれた。 劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。 劉備が逃亡すると、劉琮配下や周辺の住民10数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。 その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、2人の娘は曹純に捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲が乱戦のなか劉備の子・阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救っている。 殿軍を務めた張飛の少数部隊が時間稼ぎをし、関羽の軍と合流する事で態勢を立て直し、さらに劉表の長子・劉琦の軍と合流した(長坂の戦い)。 そして孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は孫権の説得に成功して同盟を結び、建安13年(208年)、赤壁の戦いにおいて曹操軍を破った。 赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。 劉備が荊州を治めるようになると、潘濬を治中従事に任じた。後に劉備が蜀に入ると、彼を荊州に留めて州の事務の処理にあたらせた。 劉備の荊州牧就任後、劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は、自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。
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