帰郷への執念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
享和元年(1801年)、一茶の父、弥五兵衛は死を前に遺産を一茶と弟で均分相続するよう遺言した。父の死後、一茶は継母と弟に口約束ではあるが、遺産の均分相続を認めさせて江戸へと戻った。一茶は父の死後、柏原宿の伝馬屋敷内の家に課されていた伝馬役金一分を毎年柏原宿問屋に納めており、父の財産相続の権利を確保していた。つまり一茶としては父の死の直後から、機を見て具体的な遺産分割について継母と弟相手に交渉する意志を持ち続けていたことは間違いない。 文化4年(1807年)以降、一茶は父の遺産相続問題に本腰を入れて取り組むようになった。父の死後約6年間手つかずであった遺産相続問題であったが、なぜこの時期になって一茶が本腰を入れるようになったかについては、いくつかの理由が考えられている。まず考えられるのが自身の老いへの自覚である。一茶は文化年間には40代となり、これまで頑健であった体に老いが忍び寄ってきたことを感じるようになってきた。一茶の場合、特に歯が悪かった。40代後半までにはほとんどの歯を失い、文化8年(1811年)、49歳にしてすべての歯を失ってしまった。一茶は歯槽膿漏であったと考えられており、それが比較的早期に歯を失った原因と考えられている。また、一茶は北信濃から江戸に出てきた人物であり、本心から江戸での生活に馴染むことが出来なかったとも見られている。40代を迎えた一茶は、次第に忍び寄ってくる老いの影の中、故郷への思いを募らせていった。 また一茶にとって、父の遺産を相続をすることは生活をしていくために切実な問題であった。当時著名な俳人は多くは、きちんとした定職や財産を持ち、俳諧は趣味で行っていた。例えば一茶と最も親しく交際していた夏目成美は札差、井筒屋の隠居で富裕であったし、鈴木道彦は仙台藩の藩医を務めたこともある医師で、俳諧をしながら医師業も続けていたと考えられている。文字通り俳諧一本で生活しなければならなかった一茶とは経済状態に格段の差があった。しかも一茶園月並の挫折によって、俳諧師として一大結社のリーダーとなる道も閉ざされていた。 そもそも一茶駆け出し時代の俳諧の師であった二六庵竹阿は、俳諧に没頭するあまり家族や故郷を捨て、諸国を放浪しながら生活していくことを厳しく戒めていた。竹阿は 人恒の産なき者は恒の心なし つまり、人というものは真っ当な生活の上に真っ当な心が宿るものであると教えたのである。実際、竹阿に従って俳諧の旅を続けようとした若者に対し、俳諧の基本はあくまで世法に基づくものであり、俳諧修行の旅を続けるよりも、まずはきちんとした職に就き、父母への孝養を怠らず、その上で俳諧に取り組むように諭している。また諸国を放浪しながら俳諧修行を行う俳諧師は真の俳諧師ではなく、そのような俳諧師は真の風雅ではなく、ただ風雅を切り売りしているにすぎず、竹阿自身もそのような過ちを犯してきたと告白している。一茶は師、竹阿の教えに大きな影響を受けた。一茶は おのれ、人には常の産となすべきことも知らず、人の情にて永らふるは、物言はぬ畜類に恥づかしき境界なりけり と、真っ当な生活を送らずに人の情けでようやく生きている現状を厳しく反省していた。一茶にとってみれば遺産の獲得は、師、竹阿の教えにもある、真っ当な生活を行うための戦いでもあった。
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