帰郷・県議としてとは? わかりやすく解説

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帰郷・県議として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 13:42 UTC 版)

竹下登」の記事における「帰郷・県議として」の解説

帰郷後は農地委員としての活動伝手青年団組織活動始めるが、当時青年団活動夕方から始まるものであり、昼間ブラブラしているのは世間体が悪い、ということ1947年昭和22年12月より地元掛合中学校代用教員英語科)となる。しかし教育活動は熱心でなく、英語の授業としてはローマ字教えたくらいで、軍隊時代の話などを面白おかしく話すことがメインであった生徒も年の近い竹下を「心やすい気さくなお兄さん」として接していた。メイン活動青年団活動で、活動企画全て立案した青年団として、小学校講堂借りて模擬国会、秋の収穫祭の際ののど自慢大会などを熱心に行った1949年には飯石郡青年団長に選ばれる。 のちに竹下側近として活躍した野中広務とは既にこの時代知り合っている(野中時間打ち合わせして同じ山陰本線夜行列車上京したこともある。また野中の妻は竹下の掛合中学校代用教員時代教え子一人である)。ほかにも鳥取県野坂浩賢千葉県浜田幸一とも青年団活動通じて親しくなり、国会活動の際には党派をこえた友情関係があったとされる1951年第2回統一地方選挙において、竹下県議選出馬表明する当時出雲政治・経済仕切っていたのは山林大地主田部長右衛門で、竹下家代々田部家中番頭をつとめていた。勇造の根回しにより田部は登の政界進出協力する考えであったが、この時飯石郡区には田部直系勝部幸一(勝部領樹の父)が現職立っており、田部は「あと1期待て」と説得。しかし竹下頑として聞き入れず頼み倒し半ば強引に立候補踏み切る落選すればその時点で政治生命断たれる状態であったため、選挙資金酒造金庫から大量に持ち出してつぎ込み身代つぶしてでも大規模な遊説展開する必死選挙戦結果は、トップ当選であった勝部もう一人新人候補競り負けて落選政界引退する竹下県議2期務めたが、通常の政治家のように、県議としての実績背景国政へと進む、という路線はとらず、政治状況判断して最短ルート選択した。まず、出馬にあたって逆らった田部との関係を修復すべく、自民党の県支部活動においては県連会長田部親身になって世話をし、再び取り入ったまた、職員名簿手に入れて係長上の名前を憶え、庁舎内を歩き回って係長と話をした。ほとんどの議員議員控室課長呼び付ける中で、自ら出向いてくる竹下職員の間でも評判良かった。この評判は、選挙民からの陳情処理するのに役に立ったまた、自身回ってきた役職も、同僚議員に回すことで貸しつくった結局本会議質問行ったのは1期目3回のみで、2期目になると定例会議大半欠席していた。

※この「帰郷・県議として」の解説は、「竹下登」の解説の一部です。
「帰郷・県議として」を含む「竹下登」の記事については、「竹下登」の概要を参照ください。

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