帰順を決断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)
289年4月、慕容廆は側近との協議の上、西晋への帰順を決断した。そして朝廷へ帰順の使者を派遣すると、武帝はその到来を喜んだという。5月、慕容廆は鮮卑都督に任じられた。290年、晋の武帝は没し、その嫡子の司馬衷が新たに皇帝へと即位した(恵帝)。 これ以降、晋朝の庇護を得た慕容廆の威徳は日を追う毎に広がっていったので、同じ鮮卑族であり遼西地方に勢力基盤を築いていた宇文部や段部は、併呑されるのを次第に恐れるようになり、絶えず慕容部の領土を侵攻・略奪するようになった。それでも慕容廆は彼らと交流する際には礼儀正しく謙虚に振る舞い、手厚い贈り物をして慰撫に努めた。また、段部の単于段階の娘を娶って正室とし、段部とは姻戚関係を結ぶ事で関係を強化した。妻の段夫人との間には、慕容皝・慕容仁・慕容昭の三子をもうけた。
※この「帰順を決断」の解説は、「慕容廆」の解説の一部です。
「帰順を決断」を含む「慕容廆」の記事については、「慕容廆」の概要を参照ください。
- 帰順を決断のページへのリンク