軍隊時代
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海軍軍属時代、ガダルカナル島では仲間と作業を手伝うふりをして軍の食料を盗んで逃げたと言う。 陸軍軍人時代、兵種は砲兵に配属され、本来は2人でかつぐ105kgの火砲の分解部品を1人でかついだ。 軍人時代、上官を殴ったことがある。
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軍隊時代
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1942年(昭和17年)10月1日 一等兵。現役兵として歩兵25連隊補充隊に入営 11月9日 歩兵25連隊に転属 1943年(昭和18年)2月10日 一等兵の階級を与う。幹部候補生に採用 4月1日 上等兵の階級に進む。乙種幹部候補生を命ず 9月1日 伍長の階級に進む 12月2日 北部軍教育隊に分遣の為、上敷香出発 12月4日 北部軍教育隊に入隊 1944年(昭和19年)2月1日 軍曹の階級に進む 3月31日 教育修了。現役満期 4月1日 予備役編入。引続き臨時召集 4月7日 上敷香着 12月1日 見習士官を命ず 1945年(昭和20年)8月20日 少尉 1947年(昭和22年)10月16日 舞鶴港上陸 10月19日 復員
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軍隊時代
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1937年に日中戦争のために鈴木が、技術将校の陸軍少尉として召集される。立川航空工廠監督官に命ぜられる。独立学園は休校になる。1941年1月に鈴木は招集解除となり、旧制米沢高等工業学校(山形大学工学部)の講師に就任するが、7月第二次世界大戦の独ソ戦争が起きたために再召集され陸軍中尉になり、航空工廠技能者養成所の教官になる。 1943年に鈴木は招集解除されて陸軍大尉に昇進して帰宅する。基督教独立学園の再開を計る。1944年、「この戦争は日本が悪いから負ける」と発言したため治安維持法違反容疑で逮捕され、山形警察署地下監房に収監された。1945年2月12日に釈放されて帰宅。
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軍隊時代
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千葉ロッテ退団後、2016年12月に警察野球団の追加募集に合格し入団。 2017年3月に開催された第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の韓国代表に選出されたが、大会前の練習試合や国際親善試合に登板しただけで、本大会の1次ラウンドでの登板機会はなかった。 2017年は警察野球団が参加している韓国プロ野球のフューチャーズリーグ(二軍のリーグ戦に相当)に出場し、同リーグの北部リーグで最優秀防御率(2.93)の個人タイトルを受賞した。
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軍隊時代
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1942年、20歳になった水木は徴兵検査を受け、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で兵員不足のため召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書や仏教書や聖書などを読み漁った。その中で一番気に入ったのがドイツの詩人ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、これは戦地にも持っていった。 21歳の時、召集令状が届き本籍地の鳥取歩兵第40連隊留守隊に入営することとなった。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で幹部と間違われて古年兵に背中を流してもらったこともあった。 初年兵教育を終え、何をしてもマイペースで行動も鈍く使い道が無いと上官たちからも判断されて喇叭手を命じられるが、これも上手く吹けず罰として連日炎天下の中で広い営庭(連隊宿舎の庭)を何周も走らされることとなった辛さもあって、自ら配置転換を申し出た。 最初は取り合ってもらえなかった(人事係からも、なだめる意味で「しんどいかもしれんが辛抱してやってくれ」と緩やかに諭されてもいた)が、しつこく配置転換を申し出続けたため三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。その質問を国内配置についての事と考え、「寒いのが嫌いなので南であります」と答え、九州など国内南部の連隊へ配属になると思ったが、1943年に南方でオーストラリア軍やアメリカ軍、ニュージーランド軍との前線のニューブリテン島ラバウル行きが決定。水木も南方戦線の状況は知っており、その激戦地へ派遣される羽目になって目の前が真っ暗になる程の深い衝撃を受ける、異動命令直後に二泊三日の外泊が許され両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。 歩兵第229連隊(岐阜県第38師団隷下)は鳥取から門司港へ向かい、日本を出発。その連隊所属となった水木も従わされ、やがてパラオからラバウルまで輸送される。その輸送船はかつて日露戦争で活躍した老朽船の「信濃丸」だった。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後のラバウル派遣部隊は全て途中で沈没させられたため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊となった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、内地にいた時から風変わりで役に立たない兵隊として上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。配属部隊の上官はなぜか茨城県出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないことも鉄拳制裁の口実にされ、連日上官や古兵たちから理不尽な虐めを受け続ける。 ニューブリテン島での戦争体験は、後の水木の描いた作品に多大な影響を与えている。軍隊生活と馴染めなかった水木も、所属していた第2中隊中隊長である児玉清三中尉(30歳代後半の材木屋出身の予備役将校)からは、その腕を買われて似顔絵を描く事をよく頼まれ、水木に事あるごとに言いがかりをつけては嬲ることしか考えない上官たちの中で、例外的に水木が個人として優しく接してもらえた人物だった。同様に下士官の宮一郎軍曹や砂原勝己軍医大尉なども数少ない水木に親切に接してくれた上官で、水木が戦後復員して再会してからも交流が続いた人たちだった。 ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、日本より数段優れた装備と圧倒的な物量の連合軍の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐(水木の作中では「ズンゲン支隊」とも呼ばれている)は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転でゲリラ戦に転じ生命を拾うこととなる。しかし支隊本部の誤った総員玉砕報告に反して生存者が出たことで、児玉は責任を取らされ自決した。 やがて水木は決死隊の兵隊の一人としてバイエンに配属される。出先で上官から指示が出ている最中に居眠りをしていた罰で夜勤の最後の当番を命ぜられ、眠い中で見張りをするも自然の風景に見惚れてしまい上官たちを起こす予定時間を5分ほど過ぎると、その時敵の飛行機から機銃掃射され、水木以外の寝ていた上官たちは瞬時に全滅した。水木は慌てて海に飛び込んで逃げたが、原住民ゲリラに発見され、銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、日本兵への捜索隊の追跡を何とかやりすごしつつ奇跡的に生還した。 九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられ、「なぜ死なずに逃げたのか」と詰問され、「死に場所は見つけてやる」と言い捨てられた。これまでは戦場でも何とか朗らかに振舞ってきた水木も、この件で流石に塞ぎこみ、これ以降は虚無主義的な考え方をするようになった。そんな陰惨な日々は続き、マラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく死にかけた。 追い討ちをかけるように敵機の爆撃で左腕に出血多量の重傷を負い、間の悪いことに血液型も忘れてしまっていたことで上官や仲間からの輸血処置も不可能となり、止血されるが左腕に死斑が出てしまい、延命処置として軍医によって麻酔のない状態(水木自身は意識朦朧で割合痛みは感じた記憶が無いとのこと)で左腕の切断手術を受けるなど、絶体絶命な半死半生の状態へと追い込まれた。 しばらく経過した1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂も立っており、水木も不安だったが、そんなこともなく辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された。 最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民であるトライ族(英語版)と交流する余裕ができた。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己大尉が庇ってくれた。 8月25日、部隊長から「日本のポツダム宣言受諾(条件降伏)」についての訓示を受ける。水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だとわかった。軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった。 カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。しかし、砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意したという。ただし、これについて砂原は「言った記憶がない」とも述懐している。 1946年3月、24歳の時に駆逐艦「雪風」で浦賀港に入港し、ようやく日本へ復員した。
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