軍隊指揮と総督
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「ジョン・レバレット」の記事における「軍隊指揮と総督」の解説
1663年から1673年、レバレットはマサチューセッツ民兵隊の少将となり、植民地議会の副議長あるいは補佐官に繰り返し選ばれ続けた。この期間ボストンの防衛を強化する工事を監督した。ニューハンプシャーとメイン南部の問題を解決するために再度派遣された。そこでは開拓者がマサチューセッツの支配に抵抗し、役人を逮捕するようなことが起きていた。 1660年にイングランド国王チャールズ2世がイングランドの王座に返り咲いた後、イングランド領植民地は全てその直轄下に入った。1665年、チャールズは4人のコミッショナーをマサチューセッツに派遣した。彼らは、チャールズが1662年に植民地政府に宛てて発送していた文書で要求していた条件について、植民地の合意を取るよう指示されていた。すなわち、宗教についてはより寛容な法を採択し、航海法を執行するということだった。このコミッショナーの到着は植民地政府にとって心配事項であり、レバレットは国王に宛ててコミッショナーの召喚を求める請願書を起草する委員に任命された。彼らが起草した文書は、マサチューセッツの認証を否定し、その独立をなし崩しにするために派遣された悪の代理人としてコミッショナーを表現していた。 レバレットは1671年から1672年、リチャード・ベリンガム総督の下で副総督を務め、ベリンガムの死去に伴い、その地位を承継した。その総督としての任期はフィリップ王戦争の故に注目すべきものとなり、植民地に対する認証についての脅威も高まり、1684年には取り消されることになった。植民地は、1677年にメイン地区に対するフェルディナンド・ゴージズ卿の利権を買収することで国王を怒らせた。そこはチャールズが息子のモンマス公爵ジェイムズ・スコットのために取得するつもりでいた。チャールズはニューイングランドの植民地にエドワード・ランドルフを派遣した。1676年、ランドルフはレバレットが植民地は国王の統制が及ばないと考えていると報告した。「かれは『国王陛下や議会が作った法は何物も強制しない』が、植民地の利益に合うものは従うと、私に自由に宣言した」と報告していた。 レバレットは宗教的な寛容さを好んだが、そうではない者が植民地には依然として多かった。バプテストはレバレットの任期中にボストンで礼拝を公然と始めることができたが、1677年に成立させた反クエーカーの厳しい法については、クエーカー教徒の歴史家から批判されてもいる。バプテストに対する寛容さはボストンで長続きしなかった。サイモン・ブラッドストリートが総督になった後の1680年には追放された。
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