軍隊勤務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:43 UTC 版)
「チャールズ・スコット (州知事)」の記事における「軍隊勤務」の解説
1755年に父が死んでから間もなく、スコットは大工の修業を始めた。1755年7月、地元裁判所がスコットを衛兵にしようとしていたが、裁判所が動く前の10月にスコットはバージニア連隊に入隊した。デビッド・ベルの中隊に加えられた。フレンチ・インディアン戦争の初期には、フロンティアの斥候と森に詳しい者として上官から評価を受けた。仲間の兵士の大半は規律ができておらず、訓練も足りなかったので、スコットが目立ち、迅速に伍長まで昇進することになった。1756年6月には軍曹に昇進した。 1756年のブラドック遠征のときはジョージ・ワシントンの下に仕えたが、この遠征ではフランスからデュケーヌ砦を奪取することに失敗した。1756年の大半と1757年の初期、カンバーランド砦とワシントン砦の駐屯任務となり、斥候や護衛の任務を果たした。1757年4月、ワシントン連隊の規模縮小の一部としてデビッド・ベルが解任され、スコットはペアソール砦でロバート・マッケンジー大尉の隊に入った。8月と9月、ワシントンはデュケーヌ砦を襲う準備として、2回の偵察任務にスコットと小さな斥候部隊を派遣したが、どちらの時もあまり多くの情報が得られなかった。11月、デュケーヌ砦を占領したフォーブス遠征に加わった。この年の後半はラウドン砦に駐屯し、ワシントンから少尉への昇進を受けた。 1759年の大半、スコットは斥候任務を行い、道路や砦を建設した。この期間、バージニアの軍隊はワシントンからウィリアム・バード大佐の指揮に変えられた。1760年7月、スコットはバージニア軍隊の第5隊長に指名され、バードがチェロキー族インディアンに対する遠征を指揮した。この遠征でのスコットの役割は不明である。この遠征が成功し、バージニア総督のフランシス・フォーキアは1762年2月に軍隊の解体を命じた。スコットは解体前の不明な日付で軍隊から退いた。 1762年のいずれかの時点で兄のジョンが死に、スコットはジェームズ川とマッディ・クリーク近くにあった父の土地を承継することになった。軍を離れた後、1761年遅くに相続した農園に入った。1762年2月25日、カンバーランド郡出身のフランシス・スウィーニーと結婚した。約10人の奴隷の助けを借りて、その農園でタバコを栽培し小麦粉を作った。1766年7月、地元民兵隊で2人の大尉の一人に指名された。その後の数年間、スコットと妻には4人の男の子と、4人あるいは5人の女の子ができた。
※この「軍隊勤務」の解説は、「チャールズ・スコット (州知事)」の解説の一部です。
「軍隊勤務」を含む「チャールズ・スコット (州知事)」の記事については、「チャールズ・スコット (州知事)」の概要を参照ください。
- 軍隊勤務のページへのリンク