戦争体験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
航空機関士として入社後は福岡から沖縄、台湾、北京、上海などを飛び回っていた吉村であったが、1941年12月8日の真珠湾攻撃を境に大日本航空は海軍徴用隊、陸軍徴用隊、大日本航空残留組に三分割され、吉村は日本でしばらく経験をつんだ後、海軍徴用隊として1942年7月にはシンガポールへ派遣されることとなった。シンガポールは比較的安定していたため、現地ではギターを弾いたり、ダンスホールに通う、ハーレーダビッドソンを乗り回すなど余裕のある生活が可能であったが、1943年2月6日、バンコクからサイゴンへの道中、前線であったクェゼリン島で弟、清之が戦死したという一報が吉村のもとに届いた。この頃から不安や恐怖を忘れるために、吉村はたびたび深酒をするようになった。1945年、戦況は悪化の一途をたどり、シンガポールにも危険が及んだため吉村は台北へと移動することとなった。ある夜、海軍参謀に呼び出された吉村は特攻機の夜間飛行を先導するという特殊任務を課せられた。銀河に搭乗し予科練を出たばかりの若者16名あまりを死地へ送り出し、弟や予科練時代の旧友の死を受け、吉村は毎晩酒に溺れるような生活を続けた。その結果、胃腫瘍で大量に吐血し、急遽胃の切除手術を受けることとなった。酒におぼれていた吉村には麻酔が効きにくくなっていたため、ベッドに手足を縛りつけた状態で手術は行われ、胃の3分の2を切除することになった。予科練第八期生219名中、189名は戦死。こうして終戦を迎えた。
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