戦争写真家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 00:19 UTC 版)
「ユージン・スミス」の記事における「戦争写真家として」の解説
1943年9月、「Ziff Davis」の従軍記者となる。サイパン、沖縄、硫黄島などへ派遣され、『ライフ』などに写真を提供した。 1945年5月22日の26歳のとき、沖縄戦で歩兵と同行中に日本軍の迫撃弾が炸裂し、砲弾の爆風により全身を負傷した。左腕に重傷を負い、顔面の口蓋が砕けた。約2年の療養生活を送ったが、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、ユージンは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。 戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味を向け、1947年から1954年まで、雑誌『ライフ』で「フォト・エッセイ」という形でそれに取り組んだ。 1950年にイギリス労働党の党首選挙撮影のため訪英し、クレメント・アトリーに共感を抱いたが、『ライフ』誌編集部の方針と対立し、結局その写真集はイギリスの労働者階級にのみの限定販売となった。 1954年、『A Man of Mercy』を巡って再び『ライフ』誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。1955年、マグナム・フォトに加わった。
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