戦争初期の戦い
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ポーランド侵攻(1939年)初期、LSSAHは第17歩兵師団に配属され挟撃の南側面防護を担った。連隊は、前進中のドイツ軍の側面を攻撃するポーランド騎兵部隊との激しい戦いに参加した。ウッチ近郊のパビャニツェで、LSSAHはポーランド第28歩兵師団とヴォリニア(Wołyńska)騎兵旅団を苛烈な白兵戦で退けた。 パビャニツェの勝利の後、LSSAHはワルシャワ近郊へ移動し、ゲオルク・ハンス・ラインハルト上級大将の第4装甲師団に配属された。そこで包囲突破を試みるポーランド軍と遭遇、突破へと必死な幾つかの試みを撃退した。 これらの戦闘で被ったLSSAHとSS-VTの高い損耗に対して一部の将軍は疑念を持ったが、LSSAHは作戦期間中、有能な戦闘部隊であることを証明した。 LSSAHはフランス侵攻作戦「黄色の場合(Fall Gelb)」の為に、オランダ国境に移動した。ロッテルダムでクアト・シュトゥデント上級大将指揮下の航空部隊(第7航空師団、第22空挺師団)の降下猟兵と提携し、アイセル川に架かる重要な橋の占拠の任務を受け、オランダ侵攻の先鋒を形成した。 フランスとオランダへの侵攻は1940年5月10日に開始された。その日LSSAHは目標の橋が破壊されていることを発見した後、ズトフェン近くでアイセル川を渡り75km進出、次の4日間で215km前進した。5月13日、ロッテルダム近郊でシュトゥデントがLSSAHかららしい射撃で重傷を負った。撃ったのはLSSAHかは不明だがこの事件で不信感を持たれた。5月14日、オランダ降伏後B軍集団予備になり短い休養を取った。 5月20日、フランスに移動し第6軍の第XXXXIV軍団の指揮下に入った。英軍機甲部隊によるアラスの反撃の後、LSSAHは親衛隊特務師団と共に、ダンケルク周辺の防御線を保持し、包囲した英軍派遣部隊とフランス軍を拘束、包囲網を縮める為に第一線へ移動した。LSSAHはヒトラーの停止命令を無視し攻撃を続け、5月25日、ウォルムハウトに近いワッテンバーグ高地の英軍砲兵陣地を制圧した。この戦闘で連隊は大きな損耗を被った。 ウォルムハウト占領の任務を受けたヴィルヘルム・モーンケSS大尉指揮のLSSAH第II大隊は英軍第48師団の頑強な抵抗に遭遇した。戦闘後、部隊は連隊長のディートリッヒが戦死したという誤った報告を受けた。この誤報はウォルムハウトの虐殺と知られる、ディートリッヒの死に対する報復として英軍ロイヤル・ウォリックシャー連隊第2大隊の約80名の捕虜を殺害する事件を引き起こした。この虐殺が起こった事実にも拘らずモーンケの関与を知ること出来ず、その為、彼はこの件で裁判にかけられることはなかった。 フランス軍はソンム及びエーヌ川に沿って広がるウェイガンラインを構築し、ドイツ軍の前進の障害になった。パリ北西で再編成中のLSSAHはフォン・クライスト装甲集団に配属され、6月5日、アミアンの南でソンム川を越えウェイガンラインへの攻撃を開始した。6月11日、フランス軍の猛烈な抵抗にもかかわらず最終防御線は破られ、6月14日にパリは降伏した。LSSAHはクライスト装甲集団の先鋒としてフランス第2、第4軍の残余の追撃を南へ続け、第XVI軍団の指揮下に入りリヨンの西部に進出した。6月22日、ペタン元帥は休戦を要求し3日後にフランスは降伏した。フランスでの軍事行動で、LSSAHは約500名の損耗を出した。 7月、セップ・ディートリッヒが騎士十字章を受け、9月7日、メスのアルフェンスレーベン要塞の式典でヒムラーから新しい連隊旗を贈られた。
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