戦争前夜
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1937年、日中戦争が勃発し、翌1938年に国家総動員法が制定された。日本全体が戦時体制へと移行していく中で、京大寄宿舎も戦争と無縁ではいられなかった。 戦争の影響は、まず食事に現れた。1941年4月まで舎生一人一日あたり4.5合の米が割り当てられていた。だが4月に配給が減り、食事は一日平均3合になった。そこで舎生有志が南寮の庭などを開墾し、さつまいもやじゃがいもなどの栽培を始めた。舎生はこの畑を「寄宿舎農園」、農作業を「アルバイト」と呼んだ。 寄宿舎自治も抑圧された。寄宿舎は開舎以来、舎生全員で議論し議決する直接民主制の「舎生総会」(今日の「総会」「寮生大会」)で意思決定を行ってきた。しかし大学の学生課は「舎生の集合」を「衆愚」とみなして、1941年6月、舎生規約を改正して舎生総会を廃止するよう寄宿舎に強く要求した。寄宿舎自ら舎生規約を改正しないならば、学生課で勝手に改正するという。学生課と交渉したある総務委員は「その余りに学生の人格を無視しているのに驚いた。あれが学生を指導する学生課の態度なのであろうか。あの様な学生課の考えでは、我々はとても良心的な責任ある舎生規約を作ろうという熱意が湧かない」と怒りを露にしたが、「しかし徒に日を延ばしていると、学生課の方で原案を揃えてこちらにつきつけてくるかもしれない。その場合、寄宿舎の自治というものがなくなるのではないか」と懸念した。規約改正を巡る議論は荒れに荒れたが、総務と規約改正委員会は舎生総会を廃止して総務委員を補佐する「寮務委員会」を代わりに組織する方針でまとまっていった。この方針について学生課は「舎生総会を無くしたらどれでも宜しい」という顔で、大体賛成した。同年9月30日、舎生たちは最後の舎生総会を開き、舎生総会の廃止を含む舎生規約の改正案を可決した。同じ時期、北海道帝国大学の恵迪寮でも大学当局の寮自治への介入が見られたという。 10月4日には学生課の要請で「寄宿舎報国隊」が結成された。寄宿舎報国隊は舎生を軍隊風に統率することを目的とした民間防衛組織で、非常時の消火や訓練を担当した。隊長は総務委員が兼務した。同月には学徒出陣のために大学生と専門学校生の修業年限が三ヶ月短縮された。 10月、防空訓練が本格化し、舎生は窓に暗幕をかけ、電灯に「防空燈」と称されるカバーを取り付けて空襲に備えた。 このころ、集団主義や全体主義を礼賛し、個人主義や自由主義を痛罵する価値観が舎内で幅をきかせていた。「舎生ヲ代表シ、舎内ヲ総理スル」役職の総務委員もこうした価値観を好んだ。昭和16年前期総務委員の一人は、農作物の栽培に協力する寮生が少ないことについて、「徒に舎に強制力無きを歎(たん)ぜしむる。全体主義の叫ばれる今日、舎生の行動は依然として自由本位である。このアルバイトの如きも本人の随意参加でなく、もう少し強制力を持たせたいものだ」「この事にかぎらず舎生の中には相当利己主義の人もいる様だ。こういう人は舎に入れて決して矯正できるものでなく、従って舎としてはこの様な人の入舎を避けねば到底舎生意識の昂揚云々と言った所で始まらないと思う(後略)」(総務日誌1941年9月20日)と書いた。また16年後期総務委員の一人は、総務就任の決意表明で「(前略)利己的な独善主義こそ癌なのだ。自分独りで生活しているんだと云はぬばかり面をしている連中、そう云った連中を根本的に矯正してやらねばならぬ。独りよがりの利己主義は現在のみならず過去に於ても間違って居たのだ」(総務日誌1941年11月1日)と主張した。
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