独立戦争前夜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/16 01:26 UTC 版)
「アートマス・ウォード」の記事における「独立戦争前夜」の解説
1762年、ウォードはシュルーズベリーに戻って郡裁判所判事に指名された。議会では、サミュエル・アダムズやジョン・ハンコックと同じく税務委員会に所属していた。政府の立法に対する発言権はジェイムズ・オーティスに次いで2番目だった。この議論の場でウォードが目立ったことが、知事のフランシス・バーナードの注視するところとなり、1767年のウォードの軍務を取り消すことになった。1768年の選挙では、バーナードがウォースター郡の投票結果を無効にし、ウォードを議会から締め出したが、ウォードは黙ってはいなかった。 革命の機運が高まってくるなかで、1774年10月3日、第3連隊の兵士が大量にイギリス軍への奉仕を辞めた。それに続いて兵士たちはシュルーズベリーに向かいウォード大佐に全員一致で彼を指揮官に選んだことを告げた。その月遅くに知事は議会を解散した。マサチューセッツの町々は植民地全体に渡る「安全委員会」を組織して応じた。委員会の最初の行動は、植民地民兵の将軍にして最高指揮官にウォードを指名することだった。
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