独立戦争時の政治と軍務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 16:26 UTC 版)
「ロバート・ハウ」の記事における「独立戦争時の政治と軍務」の解説
1773年12月、ノースカロライナ植民地議会は通信委員会を設立し、ハウはリチャード・キャズウェル、ジョン・ハーベイ、ジョン・アッシュ、ジョセフ・ヒューズ、サミュエル・ジョンストンと共に委員に指名された。この委員会は他の植民地と通信を行い、イギリスが植民地人に課税など負担を負わせることに抵抗する計画で協調する任務があった。1774年から、ハウはウィルミントンとブランズウィック郡安全委員会の委員となり、同年8月、トウモロコシ、小麦粉、豚肉を集めボストンに送るために組織された委員会の委員も務めた。当時、ボストン港は耐え難き諸法、特にボストン港法によって閉鎖されていた。これはボストン茶会事件や茶法に対する反対行動などに対してイギリス本国が対抗措置として課したものだった。 1774年8月25日、最初の植民地会議が招集されたとき、ハウはブランズウィック郡の代表として出席した。この会議では直ぐに、ピッチ、タバコ、タールなど交易品をイングランドに輸出することを禁止し、イギリスの茶をノースカロライナに輸入することも禁止する法案を成立させた。この年にはまた、ジョサイア・マーティンに改革を要求する文書など、愛国者あるいは「ホイッグ」同調者と呼ばれるものを表明する幾つかの文書を執筆した。1775年4月7日、マーティン総督が超法規的な第二次植民地会議を解散させるという要求を正式に拒否する演説を議会で行った。ハウの対応案が議会で採択されると、マーティンは議会を休会にさせた。同年、ハウは独立戦争最初の軍事衝突であるレキシントン・コンコードの戦いの報せを受け取り、民兵隊には標準的な鼓笛隊に対抗して太鼓とバイオリンによる異様な組み合わせで、訓練を始めさせた。 1775年7月15日、ハウはブランズウィック町の民兵500名を率い、マーティン総督を誘拐するために総督邸宅を襲撃した。しかしマーティンは早朝にジョンストン砦から逃亡し、7月19日にはHMSクルーザーに移った。ハウは砦の建造物に火を点けるように民兵に命じ、ハウの後継指揮官であるジョン・コレット大尉の家から始めさせた。コレットはその前に安全委員会から汚職容疑で告発されていた。マーティンは逃亡した後の8月8日に、ノースカロライナで拡大する騒動は、ウィルミントンの安全委員会によって宣伝された「最も基本的で恥ずべき治安妨害であり、扇動的な虚偽」と呼んだものに責任があると宣言した。 ハウは8月20日に始まったヒルズボロでの第三次植民地会議に再度ブランズウィック郡代表として出席し、議員に対する検証宣誓を開発する任にあたる委員会に指名された。この宣誓はイングランド王に対する忠誠を宣誓するが、イギリスの議会がアメリカ植民地に対して課税する権限を否定するものだった。1776年の第四次植民地会議で、ハウは「独立が(今語られる)言葉であるように見える。異議の声の1つではないことを知っている。」と宣言したことで知られている。
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