独立戦争前の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 06:44 UTC 版)
「ベネディクト・アーノルド」の記事における「独立戦争前の行動」の解説
1762年、ラスロップ兄弟の助けもあり、アーノルドはニューヘイブンで薬剤師と本屋として事業の実績を上げ始めた。アーノルドには大望があり、積極的だったので、商売は急速に拡大した。1763年には、ラスロップ兄弟から借りていた金を返済し、彼の父が負債のかたに売り払っていた家産を取り戻した。さらに1年後、十分な利益を出してそれを売り払った。1764年、アーノルドはニューヘイブンの若い商人アダム・バブコックと共同経営者になった。彼の家産を売った時に得た利益を元手に彼らは3隻の商船を買い、有利な西インド諸島貿易に乗り出した。この間、妹のハンナをニューヘイブンに連れてきて、彼が留守でも薬局をやっていけるようにした。アーノルドは自分の持ち船の1隻を指揮することも多く、ニューイングランド中やケベックから西インド諸島まで商用で旅した。それらの旅の一つでホンジュラスに行ったとき、アーノルドは彼のことを「ばかなヤンキー、紳士の作法も外聞も知らぬ奴め」と罵ったイギリスの船長と決闘した。その船長は最初の銃撃を交わしたときに傷つき、アーノルドが2発目の照準を合わせて殺すと脅したときに謝罪した。 1764年の砂糖法と1765年の印紙法は植民地での商売をひどく制限した。印紙法が成立するとアーノルドも反対の声を上げる仲間達に加わるようになり、重荷となるイギリスの議会の法の執行に反対するために暴力を使うことを恐れない秘密結社である自由の息子達にも加わることになった。アーノルドは当初特に大衆運動に加わらずに、多くの商人と同じように、印紙法など存在していないかのように商売を続け、実のところ法律を無視して密貿易業者のようになっていた。政府によって課された抑圧的な税金のために、多くのニューイングランド商人が苦境に追い込まれた。アーノルド自身も個人破産に近い状態になり、16,000ポンドの借金を抱えた。債権者達はアーノルドの破産状態という噂を広げ、アーノルドが彼らに対して法的な措置を取るところまで行った。1767年1月28日の夜、アーノルドとその船の乗組員が自由の息子達の群衆に見守られて、アーノルドの密貿易を当局に密告した疑いのある男にけがをさせた。アーノルドは治安を乱した罪で告訴され50シリングの科料を払わされた。この事件に関する報道とアーノルドの見解に対する同情が拡がったことで、軽い罰になった。 1767年2月22日、アーノルドはニューヘイブンの保安官で共にフリーメイソンの会員になって知り合いになったサミュエル・マンスフィールドの娘マーガレットと結婚した。翌年に長男のベネディクト6世が生まれ、1769年にリチャード、1772年にヘンリーと3人の息子に恵まれたが、妻は独立戦争初期の1775年6月19日に亡くなった。これはアーノルドがタイコンデロガ砦を奪取してそこに居た時だった。家事は妻のマーガレットが居た時でも、妹のハンナが差配していた。アーノルドは事業の共同経営者になったマンスフィールドとの関係を利用し、その保安官としての地位を使って債権者から守るようにさせた。 アーノルドは、1770年3月5日にボストン虐殺事件が起こったとき西インド諸島にいたが、後に「大変な衝撃だった」と書き、「神よ、大陸の人間はみんな眠らされて従順に自由を放棄したのか、あるいはあんな悪党達に仕返しもできない哲学者になってしまったのか」と悩んだと記した。
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