最初の行動
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NSGLでのトレーニングから新しい補充兵で補強されたディビジョン2とディビジョン4、ディビジョン8は弾薬倉庫と積載桟橋があったメア島海軍工廠に連れて行かれた。1944年8月8日に、給兵艦「サンゲイ」は魚雷と他の弾薬を積み込むために埠頭に着いた。328名の水兵は、弾薬積載の危険な任務を再び始めるよう要求された。彼らは一様に恐怖を感じた。そして彼らが以前と同じ士官と状況の下では決して弾薬は積まないといった。それは大規模な作業停止であった。彼らが民間人であったなら、それはストライキと呼ばれていただろう。特に戦時には、海軍はそのような振る舞いを許さない。上官が弾薬を載せることが義務であることを明らかにした後、水兵の内の70名は考えを変え、上官に従った。8月9日になって、なおも兵器大隊の258名のアフリカ系アメリカ人水兵は、弾薬を載せることを拒否し続けた。彼らは仮設軍人刑務所または営倉として使われた(定員たった75名の)はしけに連行された。営倉の大部分の水兵は直接の命令を与えられた訳ではなかった。彼らは単に船に荷物を積むか、それとももう一つの道を選ぶか選択させられた。彼らは総じて爆発の再来が怖いと漏らした。「サンゲイ」に弾薬を載せる際に収監された水兵の代わりに民間港湾労働者請負人が呼び出された。 ディビジョン4のウインチ・オペレータであった上等兵ジョセフ・ランドルフ・スモール、囚人達の間で、通称「ジョー」と呼ばれる男はこのディビジョンのリーダーである。彼は士官によって臨時の下士官として少数の信頼できる男を集めて、囚人達によき振る舞いをさせるよう要求された。8月10日、囚人が食事のために食堂に追い立てられたために、囚人と守衛の間で衝突が起きた。小競り合いは食堂でも見られた。一部の囚人にはスプーンをとがらせて、間に合わせのナイフにしている者もいた。スモールには囚人の間の反抗的な空気がひしひしと感じられた。わき上がる緊張を打ち消して、満員のはしけに乗った夕方、スモールは短い会議を招集し「ばか騒ぎをやめるよう」言った。守衛としての白人海兵隊員がより悪いので、トラブルに関わらないためにも他の選択肢として黒人の憲兵守衛に従うこととした。彼は水兵達に言った。「ボールは士官ではなく我々が握っている。我々が彼らに何もしなければ、彼らは我々に何もすることが出来ない。我々が団結するならば、彼らは我々に何もすることが出来ない。」 1944年8月11日に、258名の水兵は、刑務所はしけから近くの競技場に追い立てられ、サイパンで必死に戦う軍隊が弾薬を必要としているという、ライト海軍大将による講義があった。彼らは積載任務に就くと思われた。そして、任務を継続して拒否することは、戦時に死刑をもたらす反抗的な行為として処遇される。ライト大将(彼はその部下のうち、約400名を1942年のタサファロング沖海戦で失った)は弾薬を載せることは危険だが、銃殺執行隊による死がより大いなる危険であると述べた。 海軍大将が去った後、水兵は自分自身を2つのグループ(全ての命令に従うか、もしくは従う意志がないか)に分かれるよう命令された。ディビジョン8は全員が全ての命令に従う方を選んだ。ディビジョン2とディビジョン4は決定が二分された。スモールと他の43名は全ての命令に従うグループを作らなかった。彼ら44名は再び営倉へ連行された。そして、残りの214名は兵舎に送られた。8月12日に、「全ての命令に従う」グループに入った者の内ディビジョン2とディビジョン4の内計6名は朝の点呼に現れることを怠った。そして彼ら6名は営倉に監禁された。そして、これで合計50名の囚人が任務を放棄したことになる。これら50名は海軍によって反逆者として特定された。 8月を通して、258名全ての水兵はキャンプ・シューメーカーに連れて行かれ、そこで尋問を受けた。「反逆者」50名の内49名は、キャンプの営倉に収監された。ジョー・スモールは独房監禁に置かれた。各々の水兵は士官によって、時に武装した守衛の面前で尋問を受けた。質疑は作業停止の、そして刑務所はしけで誰が何を言ったかの、首謀者を特定することに集中した。一部の水兵は、書面での声明が彼らの言ったことを正確に反映していないことを知るやいなや、署名することを拒否した。他の者は彼らが署名する他ないと感じた。彼らは士官によってそうするよう命令されていた。数人の者は、全ていかなる声明も与えることを拒否した。他の者は率直に話した。そして、士官が被告側弁護人としてそこにいたと考えた。 全ての尋問が終わった後、208名の水兵は米国海軍の政府のための第4条の命令に従わないことで、即決の軍法会議で有罪判決を下された。各々の水兵は3ヶ月の減俸処分を受けた。彼らの数人は、来るべき反逆会議の証人として抑留された。残りはより小さなグループに分けられ、太平洋の戦域の様々な場所に船で送られた。208名の内の一人、カール・タグルは1998年に一連の太平洋信託統治諸島でまるで便所を片付けて、吸い殻を拾うような卑しい任務を任されたと言った。現役勤務からもどった後に、彼ら各々は、実質的に全ての退役軍人給付金を失うことを意味した不品行除隊を受けた。
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