最初の補足法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/04 01:54 UTC 版)
「通商禁止法 (1807年)」の記事における「最初の補足法」の解説
通商禁止法の成立から2週間後の1808年1月8日、議会は通商禁止法を補う法を成立させた。歴史家のフォレスト・マクドナルドが記しているように、最初の法には「抜け道が見つかっていた。すなわち沿岸航行船舶、漁船および捕鯨船」は通商禁止法から除外されており、主にカナダを介して抜け道が造られていた。この「補足法」は純粋に「国内の」貿易についても規制を拡大していた。 補足法第1章および第2章は、沿岸航行船舶、漁船および捕鯨船を規制した。「川船」であっても規制の対象とされた。 第3章は、当初の通商禁止法あるいは補足法の侵犯を犯罪とした。船主が違反した場合は、その船舶と積荷の没収あるいはその価値の2倍の科料とし、関税の支払いは信用取引を止められた。船長が違反した場合は、1,000ドルないし2,000ドルの科料とし、税関吏の前での宣誓能力を取り上げるものとされた。 第4章は、私掠船あるいは私掠免許状をもった船舶の解釈について戦闘艦の除外を無くした。 第5章は、外国船が商品を輸出用に積み込んだ場合の科料を定め、その押収も認めた。 一方、ジェファーソンは当時の常備軍を2,800名から30,000名に増強することについて議会の承認を求めた。しかし議会はこれを拒否した。ニューイングランドや大西洋岸中部の北側の港は冬季にほとんど使えないこともあり、最初の通商禁止法にはあまり注意を払わなかった。これが春の雪融けに向かうに連れて変化し、補足法によって加速された。 春の訪れと共に通商禁止法の影響は、海岸部特にニューイングランドの州では即座に痛感されてきた。経済の悪化で不況となり、失業者を増やした。東海岸では抗議の声が上がっては消えた。商人や商船会社の大半は単に法を無視した。カナダとの国境、特にニューヨーク州のアップステートやバーモント州では、通商禁止法を公然と馬鹿にして無視した。連邦政府の役人は、メイン州のパサマコディ湾のようにイギリス領ニューブランズウィックと国境を接している所は公然と反乱を行うと信じた。3月までに憤懣を募らせたジェファーソンは通商禁止法を文書で強制させると決断した。
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