最初の記録から三十年戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 04:15 UTC 版)
「ヘーマー」の記事における「最初の記録から三十年戦争まで」の解説
ヘーマーの最初の文献記録は1072年になされている。これはケルン大司教がグラーフシャフト修道院(ドイツ語版、英語版)に対して、現在のヘーマーの市域にある3つの農場について言及したものである。農場の1つはニーダーヘーマーにあり、聖ヴィトゥスに献堂された私立教会があることで、特別重要なものであった。このヴィトゥス教会は、おそらくエクベルティナー家によって創建され、その後ケルン大司教が獲得した。これによりヘーマーはメンデン教区に編入された。この教区は1124年に解消された。同じく Hademare と称する2つめの農場はオーバーヘーマーにあった。現在この土地は、ハウス・ヘーマーまたはヘトホーフと呼ばれている。ブレデノーレ農場またはプレティンホーロ農場は現在のブレーレンにあった。建造物は遺構が確認できるだけであるが、壁のいくつかの部分は16世紀にエーデルブルク城館の建設に用いられた。3つの農場はいずれも、いくつかの小農場を有していた。11世紀にラントハウゼン(当時の表記は、Lantensele)、1140年にズントヴィヒが文献に記録されており、ヴェスティヒが1200年にこれに続いた。 この集落は14世紀に Hedemer と呼ばれ、1438年に初めて Hemer という表記が見られる。ヘーマーは1350年からマルク伯領となり、防備を固めたイーザーローンを護るために用いられた。現存するヘネタールのクルーゼンシュタイン城をはじめとする騎士の城が、ヴェストファーレン公領(ドイツ語版、英語版)との境界を護っていた。ヘーマーの中核部は、歴史的に発展したニーダーヘーマーとオーバーヘーマーの中心部が互いに結合し、1970年代に初めて建設された。 15世紀にこの地域は比較的人口密度の高い地域であったが、引き続き農業が主体であった。しかしフェルゼンメーアからの出土品は、950年頃にはすでに(あるいはもっと早くから)、ヘーマーで鉱業が営まれていたことを示している。鉄含量が 60 % と比較的高い鉄鉱石が、13世紀から鉄生産のための溶鉱炉で利用されていた。針金製造をはじめとする金属加工業は16世紀に成立し、初めは水力を利用していた。ヘーマーのヴェストファーレン製紙水車は1567年に初めて稼働した。同じ頃、現在のヘーマー北西部でスミソナイトの採掘が始まった。 ヘーマーは1447年にゾーストのフェーデ(ドイツ語版、英語版)の戦場となった。これによりオーバーヘーマーのヘトホーフは特に甚大な損害を負った。1448年の文書では、イーザーローンおよびヘーマー周辺の地域で、これよりも被害総額が大きい集落はなかった。1486年のマルク伯の土地台帳によれば、当時ヘーマーは Ampt van Loyn(イーザーローン)の一部であった。現在の市域では、イーメルトに17軒、ラントハウゼンに3軒、ヘーマーに4軒、メスターシャイトに43軒の納税義務のある農家があった。メスターシャイトには、エーデルブルク、ヘックリングゼン、ヴェスティヒ、ズントヴィヒが含まれる。農村ダイリングホーフェンには、後にダイリングホーフェン町となる居住地に接して多くの農場が属していた。後にフレンスベルクとなるグート・フロメスベルトは、1485年にマルク伯兼クレーフェ公ヨハン2世(ドイツ語版、英語版)からヨハン・フォン・ヴレーデに移譲された。ヨハン3世は、建物を拡張した後、1517年にこの土地の所有権を宣言した。ヴレーデ家の息子たちは、公爵に対する自家の功績を主張し、最終的にこの所領を保持した。 宗教改革では、1567年に教区のほぼ全域がプロテスタントの信仰に転向した。1614年、この町は相続によりホーエンツォレルン家の所有となり、プロイセンに編入された。これ以後、ナポレオンによる統治時代を除き1945年まで(形式上は1947年に廃止されるまで)プロイセンに属した。 三十年戦争の少し前の1616年にペストが流行し、1620年、1623年、1626年にも流行が繰り返された。1623年から1624年までヘーマー周辺地域はスペイン軍の勢力下に置かれた。戦闘によりさらなる発展と鉱業生産は数年間中断したが、地域の被害は、帝国内の他の地域に比べ軽度であった。
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