最初の計画
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「アル=ケ=スナンの王立製塩所」の記事における「最初の計画」の解説
国王から委託されるより先に、ルドゥは最初の製塩所の計画を立てていた。しかし、その時点では、どこに建てるのかなどは一切考慮されていなかったため、彼はその計画が含む難点などを煮詰めることがないまま放置していたが、この計画は1774年4月にルイ15世に提出された。 この計画は非常に野心的かつ革新的なものであった。ルドゥは厳格に幾何学的な設計を適用した。まず、中心に巨大な正方形の広場を作り、これを壁で囲む。その周りに単一の様式の様々な建物を配し、互に柱廊で結ぶ。そして作業の円滑化のために、広場を回廊で斜めに仕切り、八角形にする(図面参照)。建物には多くの円柱が用いられ、回廊には144本のドーリア式円柱が用いられていた。 計画では、さらに中央の四角い広場は製塩所の燃料用の薪の貯蔵に用いられ、各隅には四角い三階建ての離れがあった。それらには守衛室、礼拝堂、パン屋など、製塩所の生活に必要な機能が備わっていた。ほかウイングには蹄鉄工や樽工の作業場があり、奥には工場 (fabrique) があった。また、被雇用者たちに金銭的なものとは別のフォローとしての役割を持つ庭園があり、盗難防止用の頑強な外壁がめぐらされていた。 これは壮大豪華な計画であったが、それがかえって計画の挫折に結びついた。当時の産業建築物にこれほど大規模なものはなかったので、ルドゥの同時代人は驚いたし、国王は宮殿や寺院でもないのに円柱を配していることなどに疑問を呈し、計画を拒否した。さらに、当時は礼拝堂を隅に配置することはけしからぬことであると見なされていた。後にルドゥもこの計画を自己批判した。 計画上の平面図は全体的に病院、修道院、大農場など、古典的な共同体住環境をトレースしたものであった。他方で、四角に区切られた計画図は、古代ローマの建築家 Vitruve による古代建築以来の欠点を持っていた。それはつまり火事が広がりやすいこと、相対的に不衛生になること、中庭が必然的に日陰になってしまうことなどである。この計画が地理的・地質的な制約を考慮していないことも批判材料となった。
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最初の計画
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「リンカーン大統領暗殺事件」の記事における「最初の計画」の解説
ブースはもともとリンカーンを誘拐して南部へ連れ去り、合衆国政府に対して捕虜収容所に抑留されている南軍捕虜の解放を強いるつもりであった。ブースはこの計画のための同志を集めていった。こうして集まったのがサミュエル・アーノルド(Samuel Arnold)、ジョージ・アツェロット、デイヴィッド・ヘロルド(David Herold)、マイケル・オロフレン(Michael O'Laughlen)、ルイス・パウエル(Lewis Powell)、ジョン・サラット(John Surratt)らであった。そのころ、サラットの母メアリー・サラット(Mary Surratt)はメリーランド州サラッツヴィル(Surrattsville)にあった下宿屋を引き払ってワシントンに居を移していた。ワシントンのサラットの家をブースが足しげく訪れたことから、メアリー・サラットがブースのアジトを提供するためにワシントンに移ったと糾弾されることになる。 ブースは1865年3月4日におこなわれたリンカーン大統領の二期目の就任式にゲストとして参加していた。ブースが参加できたのは恋人のルーシー・ヘイルのおかげであった(ルーシーの父ジョン・パーカー・ヘイルは後に駐スペイン公使となった人物であった)。ブースは後に「あの就任式の日なら、リンカーンを殺すことができた」と語っていた。 1865年3月17日、ブースは仲間たちに、リンカーンがキャンベル陸軍病院での劇「水は深きを流れる」を鑑賞する予定であることを告げた。ブースは仲間とともにワシントンのはずれにある食堂で待機し、病院から戻るリンカーンを待ち伏せして誘拐しようとした。しかし、リンカーンは病院には向かわず、ナショナルホテルでの第140インディアナ連隊が獲得した南軍の軍旗を知事に送呈する儀式に参加して演説を行っていた。皮肉なことにそこはブースの泊まっていたホテルであった。 1865年4月10日、南軍のロバート・E・リー将軍が率いる北バージニア軍がアポマトックス・コートハウスの戦いで北軍に降伏し、その時点でこの戦争は事実上終結に向かい始めていた。最早リンカーン大統領を誘拐して南軍の捕虜を解放させたところで戦争継続も南部を救う事も事実上不可能な状況だったが、翌日リンカーンはホワイトハウスの前で黒人の参政権を認めたいと演説し、それを聴いたブースの胸に殺意が宿った。
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