最初の訪日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:38 UTC 版)
「ウィリアム・インブリー」の記事における「最初の訪日」の解説
インブリー夫妻を乗せた汽船は1875年(明治8年)9月26日に横浜港に到着した。インブリーにとってこの日のことはとても印象深かったようで、彼は後年に「私は初めて日本の陸地を眼にした時のことを決して忘れません。(中略)私は過去と未来に思いを走らせ、私の前におかれた人生を心に描いてみました。それは私が今まで描いていた人生とはかなり異なるものでした」と述懐している。夫妻はすぐにいとこのミラーの好意で、横浜市山手にあるミラー夫妻が少し前まで住んでいた彼らの持ち家に落ち着いた。しばらく横浜に滞在した後、翌1876年(明治9年)1月初めに、東京の築地にある外国人居留地相対借地域の南小田原町四丁目五番地の日本家屋に転居した。同年5月に「Jesus」の日本語表記問題で特別宣教師会議の決定を不服として在日ミッション宣教師を辞任したクリストファー・カロザースとその妻のジュリア・カロザースが退去した後の、「ショッキングなほど汚い」築地居留地六番Aの宣教師館に入居した。 1877年(明治10年)9月17日にアメリカ合衆国長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会、スコットランド一致長老教会の在日3ミッションが合同して長老主義に基づく日本基督一致教会を創立することが決定したが、その合同事業を主導したのがインブリーだった。日本に到着してから2年足らずのうちに「教会の統一」を成し遂げた彼の手腕に対し、ジェームズ・カーティス・ヘボンをはじめ関係ミッション全ての宣教師が称賛を与えた。 さらにインブリーが作成に参画した報告書に従い、1877年10月7日に合同神学校の東京一致神学校が開校し、彼自身も「新約聖書釈義」と「キリスト伝」の教育を担当した。専任教授の一人として日本人教職者を養成するため神学教育に多くの時間を割いた。3年後の1880年(明治13年)4月26日に築地大学校が築地居留地七番に移転し、その筆頭教授を兼務することになった。 推進した諸事業が軌道に乗り出したので海外伝道局に賜暇休暇を願い出て、インブリー一家は1883年(明治16年)10月23日に「シティ・オブ・ペキン(英語版)号」に乗って横浜を後にし、アメリカ本国に一時帰国した。この際、夫婦の他に4歳の長男マルコムと2歳の次男チャールズも一緒であった。インブリーは休暇の最中に東京一致神学校で講義してきたキリスト伝をまとめて1884年9月に『The Life of Christ』(井深梶之助訳『福音史 一名基督言行録』)という題で、東京一致神学校から出版した。これに先立つ同年6月、日本における宣教師としての顕著な働きをたたえて母校のプリンストン大学から名誉神学博士号を授与された。
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