最初の衝突
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「ハールィチ・ヴォルィーニ戦争」の記事における「最初の衝突」の解説
ボレスワフ・ユーリー2世の死からまもなく、ポーランド王カジミェシュ3世(ヴワディスワフ1世の息子)は、リヴィウで迫害を受けていたポーランド商人とカトリック教徒住民の保護を口実として王国領内に侵入した。1340年6月、カジミェシュ3世はさらに大規模な軍隊を率いて再び侵入を始めた。4週間後、カジミェシュ3世は国内貴族とその指導者であったドムィトロー・デディコ(ロシア語版)(Дедько Дмитро)と協定を結び、国内貴族はポーランド王に仕える代わりに、ポーランド王の保護を受けることになった。 ところが、この協定は長く持たなかった。史料や記録は少ないが、その直後にハールィチ・ヴォルィーニはリトアニア人と国内貴族との間で分割され、リュバルタスがヴォルィーニとその首都ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーを支配し、デトコがハールィチを支配するようになったと考えられる。1340年の冬から1341年にかけて、ジョチ・ウルスは(おそらくリトアニアの支援を受けて)ポーランドを攻撃してルブリンに至り、このことは結果としてハールィチ・ヴォルィーニのモンゴル人ハーンへの貢納額を減らすことになった。そしてモンゴルの侵攻はポーランド人のハールィチ・ヴォルィーニへの影響力を衰えさせた。ボレスワフ・ユーリー2世の未亡人エウフェミアはヴィスワ川に沈められ、王国の継承問題に口出ししないように殺された。 ポーランド人、リトアニア人、モンゴル人を操って互いに争わせていたデトコは、1344年以後は史料に登場していない。同年、ポーランドとリトアニアは直接衝突に至ったが、間もなく和平が結ばれ、ヴォルィーニはリュバルタスに、ハールィチはカジミェシュ3世にそれぞれ割り当てられた。
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最初の衝突
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「ノルマン・東ローマ戦争」の記事における「最初の衝突」の解説
11世紀まで、シチリアや南イタリア(マグナ・グラエキア)は東ローマの領土であった。1009年、ランゴバルド人貴族メールスはバーリを独立国と宣言して東ローマ帝国に反旗を翻した。皇帝バシレイオス2世はすぐさま鎮圧軍を派遣、東ローマ帝国によってバーリを占領されたメールスは北フランスのノルマン人に支援を求めた。援軍としてやってきたノルマン人は東ローマ帝国との戦いで優位に立ち、連戦連勝を重ねたが、1018年にカンネーの戦いで敗北し、東ローマ帝国と講和を結んだ。だがノルマン人達はこの戦役以後もイタリアにとどまり続けた。
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