東ローマ帝国との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 03:00 UTC 版)
「アルプ・アルスラーン」の記事における「東ローマ帝国との戦い」の解説
1068年、アルプ・アルスラーンの遠征軍は東ローマ帝国を侵略してシリアに向かった。東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは自ら兵を率いて、キリキアにおいて侵略者を迎えうった。ロマノス帝自身が指揮した2回の戦闘と、マヌエル・コムネノス(ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスの大叔父)が指揮した戦闘との計3回の激戦が行われた結果、アルプ・アルスラーンのセルジューク軍は敗退し、ユーフラテス川の手前まで退却した(1070年)。 1071年、ロマノス帝は再び戦闘を起こすことを決意し、フランク人とノルマン人だけでなくテュルク系クマン人も傭兵とした4万人の軍を集め、アルメニアに進軍した。ローマ軍はセルジューク軍とは、ヴァン湖の北岸に位置するマラーズギルドにおいて衝突した。アルプ・アルスラーンは和議を望んだが、ロマノス帝はそれを拒否したため、マラズギルト(マラーズギルド)の戦いと呼ばれる戦闘となった。戦いの結果は、ローマ軍内部の裏切りとテュルクの騎兵隊の威力によって、ローマ軍の完敗となった。 ロマノス4世は捕虜となってアルプ・アルスラーンの前に連れられた。アルプ・アルスラーンはロマノフ帝を寛容に扱い、和平を約束したうえ、丁重に護衛の兵を付けて釈放した。2人が会見したときの会話は記録が残されており、有名である。 アルプ・アルスラーン : 「もし捕虜となったのが逆に私の方だったならば、貴方はどうするだろう?」 ロマヌス : 「きっと貴方を処刑するか、コンスタンティノープルの街中で晒し者にするだろう。」 アルプ・アルスラーン : 「私の下す刑はそれよりも重い。私は貴方を赦免して自由にするのだから。」 マラーズギルドの戦いでアルプ・アルスラーンが勝利すると、彼は麾下のセルジューク朝軍を構成していたテュルクメン系の諸侯(アミール)たちを多数東部、中部アナトリアに入植させた。これによりダーニシュマンド朝をはじめとするオグズ・テュルクメン系の諸侯たちの所領がアルメニア周辺以西に分立し、後のルーム・セルジューク朝、カラマン君侯国、オスマン朝をはじめとするアナトリアのテュルク化の端緒となった。これによりアナトリア内陸の諸都市や地域がテュルク系遊牧民に支配を受けるようになる(ただし、東ローマ帝国はさらに4世紀存続し、十字軍遠征によって西欧が勢いを盛り返す時期もある)。エドワード・ギボンなど多くの歴史家は、マラーズギルドの戦いを東ローマ帝国の衰退の始りとして記述している。
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