出自と初期の経歴
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「ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の記事における「出自と初期の経歴」の解説
アレクサンドリア フスタート アスワン エジプト トゥールーン朝 マクリア王国 ドンゴーラ アルワ王国 ソバ アクスム王国 アクスム バルカ ファラマ ティンニース アッバース朝 イラク バグダード ワースィト バスラ ハ ザ ー ル サージュ朝 アルダビール バグラトゥニ朝 バーブ・アル=アブワーブ ティフリス ハムダーン朝 ジャズィーラ モースル サーマッラー サーマーン朝 ホラーサーン ニーシャープール サッファール朝 ザランジ エスファハーン レイ ラッカ ラムラ マディーナ メッカ ズィヤード朝 サナア ザビード ファールス バフライン オマーン スハール ブルガリア帝国 コンスタンティノープル クレタ島 ビ ザ ン ツ 帝 国 ヒジャーズ スグール マラティヤ アレッポ キプロス島 シリア ダマスクス 905年にアッバース朝がトゥールーン朝を滅ぼしてエジプトとシリアの直接統治を回復させる直前の時期の主な政権(赤字)と主要都市の地図(境界線は現代の国境) 13世紀の法学者で伝記作者のイブン・ハッリカーン(英語版)が編纂した人名辞典によれば、イブン・トゥグジュは882年2月8日にバグダードのクーファ門に通じる路上で生まれた。家族はマー・ワラー・アンナフルのフェルガナ盆地出身のトルコ人であり、王族の子孫であると主張していた。イブン・トゥグジュの先祖の名前である「ハーカーン」はトルコ人の君主号の一つである。イブン・トゥグジュの祖父のジュッフはトゥールーン朝の創始者であるアフマド・ブン・トゥールーンの父親と同様にサーマッラーのアッバース朝の宮廷で軍務に就くためにフェルガナを離れた。ジュッフの息子でイブン・トゥグジュの父親であるトゥグジュ・ブン・ジュッフ(英語版)も父親のジュッフとともにアッバース朝に仕えたが、868年にはエジプトとシリアで自立政権を築いたトゥールーン朝に仕えるようになった。そしてティベリア(ジュンド・アル=ウルドゥン(英語版)の首都)、アレッポ(ジュンド・キンナスリーン(英語版)の首都)、およびダマスクス(ジュンド・ディマシュク(英語版)の首都)の総督としてトゥールーン朝に仕えた。 トゥグジュ・ブン・ジュッフは903年のダマスクスに対するカルマト派の攻撃を撃退する上で重要な役割を果たした。郊外での戦闘では敗北を喫したものの、エジプトからの援軍の到着によってカルマト派の軍隊が撤退するまでの7か月にわたり都市を防衛し続けた。このような状況の中、イブン・トゥグジュはトゥールーン朝統治下のシリアにおいて若い時代の大半を父親の側で過ごし、行政(ティベリアで父親の副総督を務めた)と軍事に関する初期の経験を積んだ。 896年にアフマド・ブン・トゥールーンの息子のフマーラワイフ(英語版)が死去するとトゥールーン朝は急速に内部崩壊を始め、905年にアッバース朝がシリアとエジプトの直接支配を再確立するために行動を起こした時にはほとんど抵抗を示すことができなかった。トゥグジュ・ブン・ジュッフはムハンマド・ブン・スライマーン・アル=カーティブ(英語版)の下で侵攻してきたアッバース朝軍に投降し、その見返りとしてアレッポの総督に任命された。しかし、その後すぐにムハンマド・アル=カーティブが宮廷の陰謀の犠牲になり、トゥグジュ・ブン・ジュッフは息子のイブン・トゥグジュとウバイドゥッラーとともにバグダードで投獄された。トゥグジュ・ブン・ジュッフは906年に獄中で死亡し、兄弟たちはその直後に解放された。 トゥグジュ・ブン・ジュッフの息子たちは、新しくカリフとなった若年のムクタディル(在位:908年 - 932年)を廃位し、年長者のアブドゥッラー・ブン・アル=ムウタッズ(英語版)を擁立しようとした908年12月の宮廷クーデターに関与した。クーデターの試みは失敗に終わったものの、イブン・トゥグジュとウバイドゥッラーは同様にクーデターに加わっていたフサイン・ブン・ハムダーン(英語版)の助けを借りてワズィール(宰相)のアル=アッバース・ブン・アル=ハサン(英語版)を殺害し、自分たちを投獄したことに対する復讐を果たした。その後3人は逃亡し、フサイン・ブン・ハムダーンは出身地のジャズィーラ(メソポタミア北部)に戻り、ウバイドゥッラーは東へユースフ・ブン・アビッ=サージュ(英語版)のもとに向かい、イブン・トゥグジュはシリアへ逃れた。 逃亡先のシリアでイブン・トゥグジュは地方の税務監督官であるアブル=アッバース・アル=ビスタムに仕えた。そしてすぐに新しい主人を追ってエジプトに向かい、910年6月のビスタムの死後はその息子に仕えた。やがてイブン・トゥグジュはエジプトの総督であるタキーン・アル=ハザリーの注意を引くようになり、アンマンを拠点としてヨルダン川以北の地を治めるためにイブン・トゥグジュを派遣した。918年にはムクタディルの母親に仕える女官の1人が含まれていたメッカへの巡礼団をベドウィンの襲撃者から救出したことで、アッバース朝の宮廷において高い評判を得た。その2年後、イブン・トゥグジュはファーティマ朝の侵攻に対してエジプトの防衛を支援することになった際に、アッバース朝軍の最高司令官で実力者のムウニス・アル=ハーディム(英語版)のもとで短期間仕えたことをきっかけにムウニスの強力な後ろ盾を得た。この軍事行動の期間中、イブン・トゥグジュはエジプトで最精鋭の部隊を指揮した。両者は信頼関係を築いたとみられ、その後も連絡を取り合っていた。 923年にタキーン・アル=ハザリーが総督としてエジプトに復帰した際にイブン・トゥグジュはそこでタキーンに仕えたが、928年にタキーンがイブン・トゥグジュに対してアレクサンドリアの知事の職を与えることを拒否したことが原因となり両者の間で軋轢が生じた。イブン・トゥグジュは計略を用いてエジプトの首都のフスタートから逃れ、バグダードからパレスチナ総督の地位を得ることに成功した。当時のパレスチナ総督であったアッ=ラシーディーはラムラの総督府からダマスクスに逃れ、その後ダマスクスの総督となった。歴史家のジェレ・L・バカラク(英語版)は、アッ=ラシーディーの逃亡はイブン・トゥグジュが大規模な軍事力を掌握していた可能性を示すものであると指摘している。3年後の931年7月にイブン・トゥグジュはダマスクス総督の地位に昇進し、アッ=ラシーディーはラムラに戻った。これらの任命は両方ともイブン・トゥグジュとムウニスの関係によるものであった可能性が高く、さらにこの頃のムウニスは自身の権勢の絶頂期にあった。
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出自と初期の経歴
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ヤズィードは642年から649年の間にシリアで生まれた。ヤズィードの父親はムアーウィヤ・ブン・アビー・スフヤーンであり、誕生当時は正統カリフのウスマーン(在位:644年 - 656年)の治世下でシリアの総督を務めていた。ムアーウィヤとウスマーンは、イスラームの預言者ムハンマドと先立つすべてのカリフが属していたクライシュ族(メッカの氏族集団)の中でも裕福な氏族であったウマイヤ家に属していた。ヤズィードの母親のマイスーン・ビント・バフダル(英語版)は、強力なベドウィンの部族であるカルブ族(英語版)の族長のバフダル・ブン・ウナイフ(英語版)の娘であり、部族内のほとんどの人々と同様にキリスト教徒であった。ヤズィードは母方のカルブ族の親族と共に育ち、青年時代の初期をシリア砂漠で過ごした。その後は661年にカリフとなったムアーウィヤに仕えていた、ギリシア人と地元出身のシリア人からなる廷臣たちと共に過ごしていた。 父親がカリフの地位にあった間、ヤズィードはコンスタンティノープルへの攻撃を含むイスラーム国家が征服を試みていたビザンツ帝国(東ローマ帝国)に対するいくつかの軍事行動を率いていた。複数の史料においてヒジュラ暦49年(西暦669年 - 670年)からヒジュラ暦55年(西暦674年 - 675年)の範囲でこれらの軍事行動の日付が示されている。イスラーム教徒による史料は軍事行動におけるヤズィードの役割の詳細についてほとんど伝えておらず、恐らく本人の後の経歴に関する論争(後述)のためにヤズィードの関与を軽視している。ヤズィードはこれらの史料において遠征に参加することを望まなかったと描写されており、ムアーウィヤを苛立たせ、ヤズィードに対して命令に従うように強要した。しかし、8世紀にアル=アンダルス(イスラーム勢力下のイベリア半島)で非イスラーム教徒によって著された、より早い時期のアラビア語の著作から情報を引用した可能性がある『741年の年代記(英語版)』と『754年の年代記』では、ヤズィードがコンスタンティノープルを100,000人の軍勢で包囲したと記録している。そして都市を征服することには失敗したものの、軍隊がコンスタンティノープルに隣接する複数の町を占領してかなりの量に及ぶ戦利品を獲得し、2年後に撤退したと伝えている。また、ヤズィードは何回かにわたってハッジ(例年のメッカへのイスラーム教徒の巡礼)を率いた。
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出自と初期の経歴
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「ナスル (ナスル朝)」の記事における「出自と初期の経歴」の解説
アブル=ジュユーシュ・ナスル・ブン・ムハンマドは、1287年11月1日(ヒジュラ暦686年ラマダーン月24日)に、恐らくナスル朝がグラナダに築いた要塞と王宮の複合施設であるアルハンブラ宮殿で生まれた。父親はナスル朝の第2代スルターンのムハンマド2世(在位:1273年 - 1302年)であり、母親はムハンマド2世の2番目の妻で解放奴隷のキリスト教徒であったシャムス・アッ=ドゥハーである。また、ムハンマド2世は最初の妻との間に1257年生まれの長男のムハンマド(後のムハンマド3世、在位:1302年 - 1309年)と娘のファーティマ(英語版)(1260年頃 - 1349年)を儲けた。ムハンマド2世はその学識と教養からアル=ファキーフ(イスラーム法学者)の通り名で知られ、子供たちに知的活動の実践を奨励した。長男のムハンマドは詩作に熱中し、一方で娘のファーティマはバルナーマジュ(イスラーム学者の伝記と著書目録)、ナスルは天文学を熱心に学んだ。ナスルとはかなり歳の離れていた兄のムハンマドは、父親の治世中に後継者(Walī al-ʿAhd)に指名された。 1302年の父親の死後にムハンマド3世がスルターンとなった。しかし、ムハンマド3世の治世の最後の数年間に、ナスル朝はイベリア半島のキリスト教国のカスティーリャ王国とアラゴン王国、さらには北アフリカのマリーン朝の間で結ばれた自国より大きな近隣の三国間の同盟に対する戦争に陥りかねない状況となった。この悲惨な結果を招く可能性のある戦争に加え、ワズィール(宰相)のイブン・アル=ハキーム(英語版)による浪費がナスル朝の人々の怒りを買った。そして1309年3月14日(ヒジュラ暦708年シャウワール月1日、イード・アル=フィトル)に、ムハンマド3世に退位を強要してナスルを擁立するためにワズィールの政敵のアティーク・ブン・アル=マウルを含むナスル朝の貴族たちが宮廷クーデターを起こした。クーデターは成功し、ムハンマド3世はアルムニェーカルの私有地に隠棲したが、イブン・アル=ハキームはクーデターの混乱の中でアティークに殺害され、その遺体は暴徒に汚された。ナスルは新しいスルターンとなり、ナスル朝の有力な一族の出身でクーデターを主導したアティークをワズィールに任命した。
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出自と初期の経歴
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「アブドゥルマリク」の記事における「出自と初期の経歴」の解説
アブドゥルマリクは644年の7月か8月、または647年の6月か7月にヒジャーズ(アラビア半島西部)のマディーナに建っていた父親のマルワーン・ブン・アル=ハカムの家で生まれた。母親はムアーウィヤ・ブン・アル=ムギーラ(英語版)の娘のアーイシャである。両親はクライシュ族の中でも最も強力で裕福な氏族の一つであるウマイヤ家に属していた。イスラームの預言者ムハンマドはクライシュ族の一員であったが、クライシュ族内部からは強力な反発を受けていた。しかし、クライシュ族は630年にイスラームを受け入れ、程なくしてイスラーム教徒の政治を支配するようになった。アブドゥルマリクはイスラーム教徒として生まれ育った世代としては最初の世代に属し、当時のイスラーム国家の政治的中心地であったマディーナで教育を受けた。伝統的なイスラーム教徒による史料では、一般的に敬虔で厳格な人物であったと伝えられている。また、イスラームに深い関心を抱き、恐らくクルアーンを暗記していた。 アブドゥルマリクの父親であるマルワーンはウマイヤ家内の親戚にあたる第3代正統カリフのウスマーン(在位:644年 - 656年)の高位の側近であった。また、アブドゥルマリクは656年にウスマーンがマディーナで暗殺される事件を目撃した。歴史家のアブドゥルアメール・ディクソンによれば、この事件はアブドゥルマリクに永続的な影響を与え、マディーナの住民に対する「不信感」を抱く原因となった。その6年後にはマディーナの住民で構成された海軍部隊の指揮官としてビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦いに臨み、戦いおいて名声を得た。アブドゥルマリクは従伯父にあたるウマイヤ朝の創始者のムアーウィヤ1世(在位:661年 - 680年)からこの任務を与えられていた。その後はマディーナに戻り、マディーナの総督となった父親の下でディーワーン(官僚機構)のカーティブ(書記官)として活動した。 ヒジャーズに残っていた他のウマイヤ家の人々と同様に、アブドゥルマリクは権力基盤を持つシリアのダマスクスから統治するムアーウィヤ1世とは緊密な関係にはなかった。ムアーウィヤ1世はウマイヤ家の中ではアブー・スフヤーン(英語版)の子孫(スフヤーン家)の系統に属していたが、一方でアブドゥルマリクはより多くの成員を抱えていたアブー・アル=アース(英語版)の子孫の系統に属していた。683年にはムアーウィヤ1世の息子で後継のカリフであるヤズィード1世(在位:680年 - 683年)に対する反乱がマディーナで起こり、アブドゥルマリクを含むウマイヤ家の人々はマディーナから追放された。この反乱は第二次内乱として知られるより広範囲に及んだ反ウマイヤ朝運動の一部であった。アブドゥルマリクはウマイヤ朝の首都のダマスクスへ向かう途上でヤズィード1世からマディーナの反乱軍を鎮圧するために派遣されたムスリム・ブン・ウクバ(英語版)が率いる軍隊と遭遇し、マディーナの防備に関する情報を提供した。ヤズィード1世の遠征軍は683年8月に起こったハッラの戦いでマディーナの反乱軍に勝利したものの、同年末にヤズィード1世が死去すると遠征軍はシリアへ撤退した。 683年から684年にかけてヤズィード1世とその息子で後継者のムアーウィヤ2世が相次いで死去したことでダマスクスでは指導力の空白が生じ、その結果としてイスラーム国家全域におけるウマイヤ朝の権威が崩壊した。ほとんどの地方はメッカを本拠地にウマイヤ朝に対抗してカリフを称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル(以下、イブン・アッ=ズバイル)に忠誠を誓った。その一方でシリアの一部ではウマイヤ朝の宮廷と軍隊において特権的な地位を保持していた古くから存在するアラブ部族、中でもとりわけカルブ族(英語版)がウマイヤ朝の支配を維持するために奔走した。アブドゥルマリクを含む父親のマルワーンの一家はシリアへ移住していたが、マルワーンはそこでイラクの総督の地位を追われたばかりであったウマイヤ朝の強力な支持者であるウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード(英語版)(以下、イブン・ズィヤード)と会った。イブン・ズィヤードはマルワーンを説得し、カルブ族の族長であるイブン・バフダル(英語版)が主催するジャービヤ(英語版)で開催されたウマイヤ朝支持派の部族会議でカリフの地位へ志願するように促した。 最終的に部族の指導者たちはこの会議においてマルワーンをカリフに選出し、マルワーンはカルブ族とその同盟者に支援を仰ぐようになった。これらのカルブ族をはじめとする各部族は、建前としては南アラビア(ヤマニ)を共通の起源としていたことから「ヤマン(英語版)」の総称で知られるようになった。このヤマン族の権力は、ヤマン族と同様の部族連合であり、ムアーウィヤ1世の下でシリア北部とジャズィーラ(メソポタミア北部)を支配していたもののイブン・アッ=ズバイルへ離反したカイス族(英語版)を排除することによって成り立っていた。そのカイス族は684年に起こったマルジュ・ラーヒトの戦いでマルワーンとその支持勢力であるヤマン族に完全な敗北を喫し、その結果として二つの部族連合間の対立と長期にわたる血の確執(英語版)を引き起こすことになった。9世紀の詩人であるアブー・タンマーム(845年没)が編纂した詩撰集に収められた戦闘当時のいくつかの詩によれば、アブドゥルマリクは宗教上の理由からこの戦いには参加しなかった。
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