出自から独立運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:23 UTC 版)
李承晩は黄海道平山郡馬山面大経里陵内洞の全州李氏の没落両班の家に生まれた。父・李敬善(1839年〜1912年)、母(金海金氏、1833年〜1896年)の3男2女の末っ子(ただし、兄二人は天然痘で夭逝)である。族譜では太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の16代末裔である。譲寧大君の長男富林令李順の子孫にあたる。王族としては、13代前の樹州正李允仁、その孫で丙子の役の時に武功を立てて全豊君を追贈された李元約などがいる。その後、数人の子孫が官職に就くも、6代前の李徴夏が陰職で県令となったのを最後に、没落した。承晩自身は李氏朝鮮の王族の分家出身であることを誇りにしていた。 父・敬善は、財産を放蕩で使い果たし、2番目の息子が死ぬと、地神を棒で叩き壊し、大刀を振り回し、その後、3ヶ月の間寝込んだ。 少年時代の李は科挙合格を目指していたが、1894年に朝鮮に於ける科挙制度が廃止されたため、アメリカ人宣教師によるミッション・スクール培材学堂に入学した。培材学堂の第一期学生となり、1896年に設立された独立協会にも参加したが、時の親露派政権が高宗皇帝に讒言したため、1898年11月には独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられ、独立協会は同年12月、強制的に解散させられた。李承晩も1899年に逮捕され、拷問を受けながら1904年まで獄中にいた。 同1904年の日露戦争の勃発後に日本が軍事的・外交的・経済的に大韓帝国に浸透するのに危機感をいだいた高宗らは、1882年の朝米修好通商条約の第1条の「周旋条項」に基づいて、アメリカ合衆国に朝鮮の独立維持のための援助を求めることを構想した。そこで英語が話せた李を釈放し、アメリカに派遣した。ハワイを経由して、アメリカに渡った李は1905年8月、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、「我々は皇帝の代表者ではなく、一進会という団体の代表者である」とし、「皇帝は朝鮮人の利益を代弁する事ができない」と、大韓帝国と高宗を積極的に否定した。 その後李はアメリカに残り、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学を経てプリンストン大学で博士号を取得した。このプリンストン大学による哲学博士号授与により、李は アジア人初の博士号取得者となった。この時期にプリンストン大学の総長であったのが、後に大統領となるウッドロウ・ウィルソンである。ウィルソンは李を気に入り、彼が自宅で開く懇親会に常連客として迎え入れ、折りをにふれて「将来の朝鮮独立の救世主」として紹介した。ジョージ・ワシントン大学における成績は、平均「C」と低い成績だった[要出典](Cの下はFで落第)が、上記のように修士課程を修了し博士号を取得した。なおアメリカ留学中の1910年に日本と大韓帝国の間で締結された日韓併合条約により、大韓帝国は大日本帝国に併合されることとなる。 大学院卒業後の1911年(明治44年)に日本領となった朝鮮半島へ戻り、ソウルのキリスト教青年会で宣教活動についた。しかし1年半の後、当時の寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件(朝鮮では「105人事件」と呼ばれている)の関与を疑われ、再び渡米した。アメリカに渡る途中に日本本土へ立ち寄り、下関、京都、東京に観光のため滞在し、鎌倉市で開催された朝鮮人学生大会にも参加した。渡米後の1913年(大正2年)に、ハワイの日本人としてホノルルに居を構え、学校職員として勤務する傍ら、朝鮮独立運動に携わった。 1918年、李と親交があったウィルソン大統領によって、「民族自決」などを掲げた平和原則が議会において発表された。同年12月にはパリ講和会議においても「民族自決」を含む条約が提起されるにおよび、ロビー活動を行うため李もパリ行きを希望する。しかし国務省は、李の旅券を発行しないよう指示されていた。
※この「出自から独立運動」の解説は、「李承晩」の解説の一部です。
「出自から独立運動」を含む「李承晩」の記事については、「李承晩」の概要を参照ください。
- 出自から独立運動のページへのリンク