出自から室町時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 00:55 UTC 版)
小寺氏は、赤松氏の祖である赤松頼範の四男将則を遠祖として、将則の曾孫宇野頼定(うの よりさだ)の次男頼季(よりすえ)が小寺氏を称したと伝えられている。一説に小寺氏は同族の宇野氏の婿養子として入ったともいう。頼季には二子があり、頼秀の流れは美作国岩屋城主を務め、景治(かげはる)の流れは播磨国姫路城主を務めた。後者は事実上小寺家の宗家として扱われており、景治は南北朝時代における正平12年(1357年)の八幡の戦いで戦死しており、『太平記』にもその名が見えている。赤松円心の長男・貞範は、播磨国の姫山に城を築いた。これがのちの姫路城であり、同城は代々小寺氏が守り、姫山城と呼ばれた。 嘉吉元年(1441年)、赤松満祐が足利義教を殺害し、嘉吉の乱が起こった。満祐は京都の自邸を焼き払い、播磨に下国し坂本城に籠城した。この事変に際し、小寺氏も宗徒八十八騎の一家として参集したことが『赤松盛衰記』にみえている。このとき小寺景治の孫である職治(もとはる)は、満祐から備前口の備えとして上原・薬師寺氏ら八百騎の大将を命ぜられている。しかし、松田・勝田氏らの謀反によって備前口の備えは崩壊し、最後は城山城で自害した。
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