出自から日本留学まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:56 UTC 版)
李朝時代の漢城府(現・ソウル特別市)で韓観洙の三男として1880年10月16日に生まれる。観洙の家系は名門両班であり、親戚には李完用内閣で内閣書記官長を務めた李昌洙がいる。母方の親戚では日韓併合で主導的な役割を果たした李完用や、軍部大臣などを務めた李允用がいる。 1896年に親戚で官立外国語学校長である韓昌洙の推薦により官立英語学校に入学した。当初は漢城師範学校への進学を希望したが、近代的な教育が受けられ、就職率がいい英語学校への入学を昌洙から勧められたという。1898年に米国留学を計画するが、資金不足を利用に留学先を日本に変更。母方の親戚である李允用の推薦により、陸軍士官学校の予備校である成城学校に編入学することになり、入学までの間には宇都宮太郎大佐の監督下で私塾で学んだ。宇都宮など参謀本部所属の軍人の影響で、軍人を志すようになる。また、留学中には朴泳孝・兪吉濬などの開化派亡命グループとも交流を深め、文明開化論について思想的な影響を受けた。しかし、1900年に病気を理由に退学し、帰国した。帰国後は宇都宮太郎の友人で、高宗からの信頼が厚い駐韓日本公使館附武官・野津鎮武少佐から指導を受け、日本公使館や日本軍によって利用されることになる。
※この「出自から日本留学まで」の解説は、「韓相龍」の解説の一部です。
「出自から日本留学まで」を含む「韓相龍」の記事については、「韓相龍」の概要を参照ください。
- 出自から日本留学までのページへのリンク