出自と前歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:02 UTC 版)
蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀郷を拠点とした国衆で、正勝は大永6年(1526年)、蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれた。生母は不明であるが、その生母は彼が6歳の時、享禄4年11月7日(1531年12月15日)に亡くなったという。 『武功夜話』では、川並衆という木曽川の水運業を行うことで利益を得ていた集団の1つであったとされているが、信憑性には疑問が呈されている。稲田大炊助(貞祐)、青山新七(昌起)らと土豪勢力をなしていたようであるが、詳しいことはわかっていない。しかし少なくとも父・正利の代より美濃斎藤氏に仕えていたようであり、それが理由で織田信秀方に付いた一族とは敵味方に分かれていた。 天文22年(1553年)2月25日の父の死後、正勝は郷里を出て斎藤道三に近侍した。濃尾の争いで道三にしばしば用いられ、初名の利政も道三より偏諱を受けたものらしい。弘治2年(1556年)、道三と斎藤義龍が争った長良川の戦いでは、道三側について首級を上げた。 道三死後は尾張国の岩倉城主・織田信賢に仕え、翌年、岩倉城で反乱があった際に鎮圧に貢献して賜衣を授けられた。しかし信賢は織田信長と犬山城主・織田信清の連合に攻められ、敗れて降伏。このため正勝は信清に一時的に仕えるが、信清も信長と不和となって永禄7年(1564年)に甲斐国へ亡命したので、信長に仕えるようになって、この頃、蜂須賀郷に戻った。 一説では、秀吉は織田氏に仕える以前に正勝に仕えていたとも云われ、秀吉による推薦があって(敵側だった)正勝は信長の家臣となったという話もある。(『武功夜話』を信じるならば)秀吉の父・弥右衛門は蜂須賀正利の配下であったことがあり、小和田哲男は秀吉はその縁で正勝と信長とを橋渡したのだろうと推測する。 なお、信長の側室・生駒吉乃の父である生駒家宗とは同郷であり、『織田家雑録』では、秀吉が織田氏に仕えたのは正勝と縁のあった吉乃の推薦によるとしている。他方で別書によれば、正利の室・安井御前は秀吉の義弟に当たる浅野長政とは母方の従兄弟になるので、その縁で秀吉の与力となった可能性もあるとされる。
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