出自と即位まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:18 UTC 版)
「ムハンマド4世 (ナスル朝)」の記事における「出自と即位まで」の解説
ムハンマド4世として知られるアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・イスマーイールは、1315年4月14日(ヒジュラ暦715年ムハッラム月7日)にグラナダで、叔父のナスルを追放してスルターンに即位したイスマーイール1世とキリスト教徒の母親のアルワの間に長男として生まれた。父親のイスマーイール1世は1325年7月8日(ヒジュラ暦725年ラジャブ月26日)に親族のムハンマド・ブン・イスマーイール(ムハンマド4世とは同名の別人)によって暗殺された。14世紀のナスル朝の歴史家であるイブン・アル=ハティーブとカスティーリャの『アルフォンソ11世年代記』によれば、暗殺の直接的な動機は個人的な不満によるものであった。さらにカスティーリャの年代記では、ナスル朝の軍務に服していた北アフリカ出身者によって構成された軍隊であるアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン(英語版)の司令官(シャイフ・アル=グザート)のウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラー(英語版)が影で糸を引いていたと付け加えている。 暗殺時に襲撃に加わったムハンマド・ブン・イスマーイールとその兄弟は即座に捕えられて殺害されたが、ウスマーンは罪には問われなかった。当時と近い時代に生きた歴史家であるイブン・ハルドゥーンによれば、ウスマーンは暗殺に関与した人物ではなく、逃走を試みた殺害犯を見つけ出して処刑した人物であった。そしてイスマーイール1世の10歳の息子のムハンマドが同じ日にスルターンであると宣言された。ワズィール(宰相)のアブル=ハサン・ブン・マスウードは暗殺事件でイスマーイール1世を護衛した際に負傷していたにもかかわらず、ムハンマドへの忠誠を宣言(バイア(英語版))するために廷臣たちを呼び集めた。忠誠を誓った人々の中には裁判官(カーディー)、説教師、スーフィー、ウラマー、文法家、そして書記官がいた。ムハンマドの父方の祖母であるファーティマ・ビント・アル=アフマル(英語版)は、ムハンマドがスルターンの地位を継承するに当たって極めて重要となる支持を表明した。ファーティマの夫で祖父にあたるアブー・サイード・ファラジュ(英語版)がスルターンの血統に属していなかった一方で、ファーティマは以前のナスル朝のスルターンの子孫であり、ファーティマの血統を通してムハンマドの即位にさらなる正当性を付与した。
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