出自と即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 02:55 UTC 版)
「エゼルバルド (マーシア王)」の記事における「出自と即位」の解説
エゼルバルドはマーシア王家の血筋ではあるが、父アルウェオ(Alweo)はマーシアの王ではない。アルウェオの父エオワは、一部資料では弟のペンダと共同で王位に就いていたとされている。『アングロサクソン年代記』にはエオワに関する記述がなく、ペンダ在位を626年からウィンウェドの戦いで命を落とす656年までの30年間としているが、後代の2つの資料『ブリトン人の歴史』と『カンブリア年代記』はエオワを王としており、『カンブリア年代記』はエオワは644年のメザーフェルスの戦いで死にペンダはノーサンブリア王オズワルドを敗走させたとしている。ペンダ治世に関する記述は乏しく、はたしてエオワがペンダの下位の王でペンダに臣従を誓っていたのか、あるいはマーシアを分かち合って共同統治していたのかは推測の域を出ない。もし共同統治していた場合エオワはマーシア北部を治めていたとみられるが、これは後にペンダの息子ペアダが、656年にペンダを打ち取ったノーサンブリア王オスウィによってマーシア南部の王に据えられたためである。エオワはメザーフェルスの戦いでペンダに反旗を翻していた可能性もある。 エゼルバルドが幼少の頃、マーシア王家はペンダの血筋が支配しており、ペンダの孫、すなわちエゼルバルドの又従兄弟にあたるケオルレッド(Ceolred)が709年から716年まで王位に就いていた。初期の資料、フェリクスの『聖グスラックの生涯』によれば、エゼルバルドはケオルレッド王により国外へ追放されたという。聖グスラック (Guthlac of Crowland) は元々マーシアの豪族で戦士であったが、暴力が支配する生活を棄ててレプトンで最初の修道士となった人物で、晩年はイーストアングリアの湿地帯クローランドにある墳丘墓で隠者生活を送っていた。マーシアを追放されたエゼルバルドとその手下たちはあるときこの湿地帯に身を隠し、グスラックのもとを訪れた。グスラックはエゼルバルドの身の上に同情したというが、これはケオルレッドが修道院を抑圧していたことも理由のひとつであるかもしれない。グスラックのもとには、エゼルバルドだけではなく有力なマーシア人でリッチフィールド司教であったハッデ(Haedde) なども訪れており、グスラックの助力を得たことが後にエゼルバルドの王位奪還の一助となった可能性もある。グスラックの死去後、エゼルバルドの夢にグスラックが現れ大願成就を予言したとされ、エゼルバルドは即位後その報いとしてグスラックを記念した修道院を建造した。 716年、ケオルレッドが宴会の最中に発作を起こして死に、エゼルバルドはマーシアに帰還し王位に就いた。なおエゼルバルド即位の前にケオルレッドの兄弟とされるケオルワルドという人物が短期間王位に就いていた可能性がある。エゼルバルドが王位に就いたことでペンダの血筋は一時途絶え、エゼルバルドの後は、少し間をおいて、同じくエオワの子孫であるオファが王位に就いた。父アルウェオを除きエゼルバルドの近親者についてはほとんど何も分かっていないが、2通の勅許状の証人欄にエゼルバルドの兄弟としてヘルドベルト (Heardberht)というエアルドルマン(貴族)の名がある。
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