『ブリトン人の歴史』
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「ヘンギストとホルサ」の記事における「『ブリトン人の歴史』」の解説
9世紀にブリトン人のキリスト教徒ネンニウスが書いたとされる『ブリトン人の歴史』によれば、ヴォーティガンの治世中に、ヘンギストとホルサに率いられた3隻の船がドイツを逃れてブリテン島にやってきた。ここでヘンギストとホルサの系譜が語られるところでは、兄弟の父はギクトギルス(Guictglis)といい、そこからさかのぼるとギクタ(Guicta)、ゲクタ(Guechta)、ヴォーデン(Vouden)、フレアロフ(Frealof)、フィン(Finn)、フォレガルド(Foleguald)、ゲタ(Geta)と続いている。このゲタは「神の子」であると言われているが、ここでいう神とは「全能なる神あるいは我らが主イエス・キリストではなく」、むしろ「彼らが異教の慣習に従い崇拝した、ある悪魔によって盲目にされた彼らの偶像神の一人の子」である、としている。447年、ヴォーティガンはヘンギストとホルサを「友として」受け入れ、サネット島を与えた。 サクソン人がサネット島に住み着いて「しばらく」後、ヴォーティガンは彼らに服など必要なものを提供する代わりに、自分の国のために敵と戦ってもらうという協定を結んだ。しかしサクソン人の数が増えすぎたことで、ヴォーティガンらブリトン人は約束を守れなくなり、ついにサクソン人に対して、軍事支援はもう必要ないので故郷へ帰るように、と通告した。 ヴォーティガンの許しを得て、ヘンギストは「スキュティア」に使者を送り、援軍を求めた。そこで多くの戦士が選ばれ、使者とともに16隻の船に乗ってブリテン島にやってきた。このとき、ヘンギストの美しい娘も同行してきた。ヘンギストは祝宴を開き、ヴォーティガンやその家臣たち、そして通訳のケレティク(Ceretic)を招いた。宴に先立ち、ヘンギストは娘にワインとエールの酌をさせ、客たちを酔わせた。娘に心を奪われたヴォーティガンは、彼女と結婚するのと引き換えに、ヘンギストに欲しいものを何でも与える、と約束した。そこで宴席にいたアングル人の長老たちと相談したヘンギストは、ケントの地を要求することにした。それ以前のケントの支配者についてはよくわかっていないが、ともかくヴォーティガンはヘンギストの申し出を承諾した。 こうしてヘンギストの娘と結婚したヴォーティガンは、彼女を深く愛した。ヘンギストはヴォーティガンに、今や自分は彼の父であり顧問であり、自分を頼れば負け知らずであろう、なぜなら「我が国の者たちは、強く好戦的でたくましいからだ」と言った。ヴォーティガンの承認を受けて、ヘンギストは息子や弟とともにハドリアヌスの城壁近くに住んでいたスコットランド人と戦った。またヴォーティガンの許しを得て、オクタとエビッサという人物が40隻の船を率いてやってきて、北方のピクト人の土地の周辺を周航しては「多くの地域」を征服し、オークニー諸島を襲撃した。ヘンギストが次々と故郷から人や船を呼び寄せたので、かつて彼らが住んでいた島々の中には、人が出払って無人になるところすらあった。 このころ、ヴォーティガンは自分の娘に子を産ませたことで聖ゲルマヌスに糾弾され、聖ゲルマヌスこそその子の父だと偽装しようとしたが失敗し、顧問の助言を受けて身を隠していた。その間に、ヴォーティガンの息子ヴォーティマーがヘンギストとホルサに戦いを挑み、ここにブリトン人とサクソン人の戦争が始まった。ヴォーティマーはサクソン人をサネット島に追い込み、西側から取り囲んだ。しかしその後、両者の戦争は一進一退といった状況になり、サクソン人は領土を広げることもあれば退却を強いられることもあった。ヴォーティマーは全部で4度にわたりサクソン人を攻めた。2度目の時はダーウェント川で戦闘になった。3度目の時に起きたアイルズフォードの戦いで、ホルサとヴォーティガンの子カーティガンが戦死した。最後には、サクソン人は「ガリアの海の海岸のストーン近く」でヴォーティマーに敗れ、船へ逃れた。 ヴォーティマーが没してから「しばらく間を開けて」、サクソン人は「外地の異教の助けを借りて」反撃に成功した。ヘンギストは兵を集めたうえでヴォーティガンに和平を求めた。ヴォーティガンはこれを受け入れ、ブリトン人とザクセン人の指導者たちが和解するための宴会が行われることになった。しかし、ヘンギストは部下たちに、足元に剣(スクラマサクス)を隠し持っておくよう指示していた。時を見計らってヘンギストが「剣を取れ」(nima der sexa)と叫び、それに応じてサクソン人たちがブリトン人たちを虐殺した。しかしヴォーティガンはサクソン人にエセックス、サセックス、ミドルセックス、そのほか名も知らぬ各地方を差し出すと言ったことで、命を助けられた。 ブリトン人たちは聖ゲルマヌスを指揮官として歓呼して迎えた。彼らが祈り、ハレルヤを歌い、神に向かって泣き叫ぶと、サクソン人はたまりかねて海へ追い出された。その後、ゲルマヌスはヴォーティガンの城で三昼夜祈りをささげた。すると天から炎が落ちてきて城を飲み込み、ヴォーティガンやヘンギストの娘、そのほか多くの妻たちや住人を焼死させた。なお、ヴォーティガンの後半生については他の説も紹介されている。しかしいずれにせよ、サクソン人はその後もブリテン島で数を増やし続け、ヘンギストが没した後は息子のオクタが王位を継いだ。
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『ブリトン人の歴史』
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「ベイドン山の戦い」の記事における「『ブリトン人の歴史』」の解説
時代が下って、9世紀にネンニウスが執筆した『ブリトン人の歴史』においてはベイドン山の戦いにアーサーが登場している。この書物によれば、ベイドン山の戦いは戦場を12回移して戦った最後の戦場であるという。アーサーについては、この戦いにおいて1人で960人の敵兵を倒したとの超人的な活躍をしたとの記述がある。また、アーサーは王ではなく、単なる戦闘隊長になっている。 なお、戦場となった場所は、初めの戦場はグレイン川の河口、2番から5番目までがリヌイス地方を流れる川沿いのドゥブグラス、6番目がバッサスという川、7番目がケリドンの森、8番目がグレニオン、9番目がレギオンの街、10番目がトリブルイト川の岸、11番目がアグネットという山、そして最後の12番目の戦場がベイドン山であり、アーサーはこの全ての戦いで勝利したという。その結果、一時はサクソン人を駆逐したものの、サクソン人はゲルマニアから援軍を招き、最終的にはブリテンは支配されたという。 この12の戦場のうち、7番目の「ケリドンの森」についてはスコットランドのどこかという説[誰によって?]がほとんど異論なく(さらにこまかくはダンバードン、カーライル北部など候補[要出典]がある)、9番目の「レギオン」は「ローマの軍隊」を意味するのでローマ軍の駐留地であったチェスターかカーレオンではないかと考えられている[誰によって?]が、ベイドン山を含めてその他の戦場は不明である。もっとも、ベイドン山以前の11の戦闘については『ブリトン人の歴史』以外から見ることはできないこと、この時期にサクソン人がスコットランドやチェスターのような北部・西部に進出していたその信憑性が疑わしいため、信頼性にかなり疑問[要出典]がある。そのため、ベイドン山以外の戦場については、他の英雄の戦争が混在した、あるいは詩的表現としてキリのいい12という数字を作るための水増しではないかと考えられている[誰によって?]。
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