『ブリトン人の歴史』とは? わかりやすく解説

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『ブリトン人の歴史』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 09:01 UTC 版)

ヘンギストとホルサ」の記事における「『ブリトン人の歴史』」の解説

9世紀ブリトン人キリスト教徒ネンニウス書いたとされる『ブリトン人の歴史』によればヴォーティガン治世中にヘンギストとホルサ率いられた3隻の船がドイツ逃れてブリテン島にやってきた。ここでヘンギストとホルサ系譜語られるところでは、兄弟の父はギクトギルス(Guictglis)といい、そこからさかのぼるとギクタ(Guicta)、ゲクタ(Guechta)、ヴォーデン(Vouden)、フレアロフ(Frealof)、フィンFinn)、フォレガルド(Foleguald)、ゲタGeta)と続いている。このゲタは「神の子」であると言われているが、ここでいう神とは「全能なる神あるいは我ら主イエス・キリストではなく」、むしろ「彼らが異教慣習従い崇拝した、ある悪魔によって盲目にされた彼らの偶像神の一人の子」である、としている。447年ヴォーティガンヘンギストとホルサを「友として」受け入れサネット島与えたサクソン人サネット島住み着いて「しばらく」後、ヴォーティガンは彼らに服など必要なもの提供する代わりに自分の国のために敵と戦ってもらうという協定結んだ。しかしサクソン人の数が増えすぎたことで、ヴォーティガンブリトン人約束守れなくなり、ついにサクソン人に対して軍事支援はもう必要ないので故郷へ帰るように、と通告したヴォーティガン許し得て、ヘンギストは「スキュティア」に使者送り援軍求めた。そこで多く戦士選ばれ使者とともに16隻の船に乗ってブリテン島にやってきた。このとき、ヘンギストの美しい娘も同行してきた。ヘンギストは祝宴開きヴォーティガンやその家臣たち、そして通訳のケレティク(Ceretic)を招いた。宴に先立ち、ヘンギストは娘にワインエールの酌をさせ、客たちを酔わせた。娘に心を奪われヴォーティガンは、彼女と結婚するのと引き換えに、ヘンギストに欲しいものを何でも与える、と約束した。そこで宴席にいたアングル人長老たち相談したヘンギストは、ケントの地を要求することにした。それ以前ケント支配者についてはよくわかっていないが、ともかくヴォーティガンはヘンギストの申し出承諾した。 こうしてヘンギストの娘と結婚したヴォーティガンは、彼女を深く愛した。ヘンギストはヴォーティガンに、今や自分彼の父であり顧問であり、自分頼れば負け知らずであろう、なぜなら「我が国の者たちは、強く好戦的たくましいからだ」と言ったヴォーティガン承認受けて、ヘンギストは息子や弟とともにハドリアヌスの城壁近く住んでいたスコットランド人戦った。またヴォーティガン許し得てオクタとエビッサという人物40隻の船を率いてやってきて、北方ピクト人土地周辺周航しては「多く地域」を征服しオークニー諸島襲撃した。ヘンギストが次々と故郷から人や船を呼び寄せたので、かつて彼らが住んでいた島々中には、人が出払って無人になるところすらあった。 このころヴォーティガン自分の娘に子を産ませたことで聖ゲルマヌス糾弾され聖ゲルマヌスこそその子の父だと偽装ようとした失敗し顧問助言受けて身を隠していた。その間に、ヴォーティガン息子ヴォーティマーがヘンギストとホルサ戦い挑み、ここにブリトン人サクソン人戦争始まった。ヴォーティマーはサクソン人サネット島追い込み西側から取り囲んだ。しかしその後両者戦争一進一退といった状況になり、サクソン人領土広げるともあれ退却強いられることもあった。ヴォーティマーは全部4度にわたりサクソン人攻めた2度目の時はダーウェント川戦闘になった3度目時に起きたアイルズフォードの戦いで、ホルサとヴォーティガンの子カーティガンが戦死した最後には、サクソン人は「ガリアの海の海岸ストーン近く」でヴォーティマーに敗れ、船へ逃れた。 ヴォーティマーが没してから「しばらく間を開けて」、サクソン人は「外地異教助け借りて反撃成功した。ヘンギストは兵を集めたうえでヴォーティガン和平求めたヴォーティガンはこれを受け入れブリトン人ザクセン人指導者たちが和解するための宴会が行われることになった。しかし、ヘンギストは部下たちに、足元に剣(スクラマサクス)を隠し持っておくよう指示していた。時を見計らってヘンギストが「剣を取れ」(nima der sexa)と叫び、それに応じてサクソン人たちがブリトン人たちを虐殺した。しかしヴォーティガンサクソン人エセックスサセックスミドルセックスそのほか名も知らぬ各地方差し出と言ったことで、命を助けられた。 ブリトン人たちは聖ゲルマヌス指揮官として歓呼して迎えた。彼らが祈りハレルヤ歌い、神に向かって泣き叫ぶと、サクソン人たまりかねて海へ追い出された。その後ゲルマヌスヴォーティガンの城で三昼夜祈りささげた。すると天から炎が落ちてきて城を飲み込みヴォーティガンやヘンギストの娘、そのほか多くの妻たちや住人焼死させた。なお、ヴォーティガン後半生については他の説紹介されている。しかしいずれにせよサクソン人その後ブリテン島で数を増やし続け、ヘンギストが没した後は息子オクタ王位継いだ

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『ブリトン人の歴史』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 05:40 UTC 版)

ベイドン山の戦い」の記事における「『ブリトン人の歴史』」の解説

時代下って9世紀ネンニウス執筆した『ブリトン人の歴史』においてはベイドン山の戦いアーサー登場している。この書物によればベイドン山の戦い戦場12移して戦った最後戦場であるという。アーサーについては、この戦いにおいて1人960人の敵兵倒したとの超人的な活躍をしたとの記述がある。また、アーサーは王ではなく単なる戦闘隊長になっている。 なお、戦場となった場所は、初め戦場グレイン川の河口2番から5番目までがリヌイス地方流れ川沿いのドゥブグラス、6番目がバッサスという川、7番目がケリドンの、8番目がグレニオン、9番目がレギオンの街、10番目がトリブルイト川の岸、11番目がアグネットという山、そして最後12番目の戦場がベイドン山であり、アーサーはこの全ての戦いで勝利したという。その結果一時サクソン人駆逐したものの、サクソン人ゲルマニアから援軍招き最終的にブリテン支配されたという。 この12戦場のうち、7番目の「ケリドンの」についてはスコットランドのどこかという説[誰によって?]がほとんど異論なく(さらにこまかくはダンバードン、カーライル北部など候補[要出典]がある)、9番目の「レギオン」は「ローマ軍隊」を意味するのでローマ軍駐留であったチェスターかカーレオンではないか考えられている[誰によって?]が、ベイドン山を含めてその他の戦場不明である。もっとも、ベイドン山以前11戦闘については『ブリトン人の歴史』以外から見ることはできないこと、この時期サクソン人スコットランドチェスターのような北部西部進出していたその信憑性疑わしいため、信頼性にかなり疑問[要出典]がある。そのため、ベイドン山以外の戦場については、他の英雄戦争混在した、あるいは詩的表現としてキリのいい12という数字作るための水増しではないか考えられている[誰によって?]。

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