『ブリタニア列王史』
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「コンスタンティン3世」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説
ジェフリー・オブ・モンマスは、1136年ごろに著した偽史『ブリタニア列王史』で、コンスタンティンをアーサー王の後継者に位置付け、以降この創作が史実として誤伝されるようになった。一方で、ジェフリーのコンスタンティンには、ギルダスの報告する歴史的暴君としての側面も残っている。同書では、コンスタンティンはコーンウォール公カドーの息子とされている。カドーはまたアーサーの王妃グィネヴィアの養父であったとあるから、コンスタンティンはいわばアーサーの義理の兄弟のような立場にある。 西暦542年、アーサー王はカムランの戦いでカドーを含む大量の側近を失い、さらに裏切り者の甥モードレッドと相討ちになる。王は致命傷を癒やすためにアヴァロンへ護送される途中、カドーの息子コンスタンティンに王冠を譲り渡す。新たなブリテン王として即位したコンスタンティンは、モードレッドの残存勢力であるサクソン人を駆逐、次いでモードレッドの二人の息子がそれぞれウィンチェスターとロンドンの教会に逃げ込んだため、彼ら二人を教会の祭壇の前で殺す。しかし、これが神の怒りに触れて、コンスタンティンはそのわずか三年後に甥のコナン(アウレリウス・コナヌス(英語版))によって殺害され、王座を簒奪される。遺骸はとある巨石建造物に先々代の王ユーサー・ペンドラゴンの側に葬られ、現在(ジェフリーが著述した時点で)その遺跡はイングランドでストーンヘンジとして知られている。 なお、『ブリタニア列王史』では、彼は同名のブリテン王の三人目であるため、コンスタンティン3世ということになる。コンスタンティン1世は、ローマの元老院議員コンスタンティウスとヘレナの息子すなわちローマのコンスタンティヌス大帝である。コンスタンティン2世は、ローマの将軍でブリタンニア駐在中にローマ皇帝コンスタンティヌス3世を僭称した人物に比定されている。
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『ブリタニア列王史』
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「ヘンギストとホルサ」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説
ジェフリー・オブ・モンマスが書いた偽史『ブリタニア列王史』では、ヘンギストとホルサは第6巻および第8巻に登場する。『ブリトン人の歴史』で語られた伝説がさらに拡張されているため、以下の内容は非常に史実性に乏しいことに注意が必要である。
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『ブリタニア列王史』
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「アーサーの甥、ガウェインの成長記」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説
少なくともガウェインがスルピキウスローマ教皇(Sulpicius。実在の教皇の名ではない)のもとで教養をうけたこと、ローマで騎士の位を受けたことは、上述のジェフリー・オブ・モンマス『ブリタニア列王史』にも記述されている。『ガウェインの成長』は、『ブリタニア列王史』より後に著作され、ガウェイン卿のこうした出自について肉付けして書き増ししているのである。 『ブリタニア列王史』の内容をアングロ=ノルマン語で翻案したウァースのブリュ物語や、その中英語への翻案であるラヤモン(英語版)の『ブルート』(英語版)にも、当然ながら、ガウェインがローマで教養を受けた話は(多少の脚色をくわえて)伝えられている。
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『ブリタニア列王史』
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「カッシウェラウヌス」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説
カッシウェラウヌスはジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』に登場する。ただしスペルは「Cassibelanus(カッシベラヌス)」(またはCassibelaunus(カッシベラウヌス)」)となっている。カッシベラヌスはヘリ王(Heli)の子で、兄のルッド王の死後、ブリタニア王になる。ルッドにはアンドロゲウス(『ガリア戦記』に出てくる実在のトリノヴァンテス族の王マンドゥブラキウス)とテンウァンティウス(Tenvantius、実在のカトゥウェッラウニ族の王タスキオウァヌス(Tasciovanus))という2人の息子がいたが、2人とも年が若かった。アンドロゲウスはケント公・トリノヴァントゥム(Trinovantum、現ロンドン)公に、テンアンティウスはコーンウォール公になる。 ガリア征服後、ユリウス・カエサルはブリタニアにやって来て、カッシベラヌスに服従するよう手紙を送る。カッシベラヌスは、ブリトン人とローマ人は同じトロイの末裔(トロイのブルータス参照)だと主張し、それを拒否する。カエサルはテムズ川の入り江を侵略し、戦闘が始まる。カッシベラヌスの兄弟ネンニウス(Nennius)がカエサルとあいまみえる。カエサルの剣がネンニウスの楯から抜けなくなる。ネンニウスは自分の剣を捨て、カエサルの剣でローマ兵を多数殺害する。殺された中にはトリブヌス・ミリトゥムのラビエヌス(Labienus)もいた。カエサルはガリアに敗退する。カッシベラヌスは勝利を喜びたいが、ネンニウスの死で複雑な思いである。ネンニウスを埋葬する時、クロケア・モルスという名称のカエサルの剣も一緒に埋められた。 2年後、カエサルはさらなる大軍を率いて侵略してくる。事前にそれを察知したカッシベラヌスは、カエサルの船隊を破壊しようとテムズ川の喫水線の下に杭を植え込む。作戦は成功し、数千のローマ兵が溺死する。ローマ軍は再び敗走する。 ブリトン人指導者たちはトリノヴァントゥムに集まり、自分たちを勝利に導いた神々に感謝を捧げ、多くの動物を生贄にし、スポーツ競技を催す。レスリングの試合の時、カッシベラヌスの甥ヒレルグラスがアンドロゲウスの甥クエリヌスに殺される。カッシベラウヌスは裁判のため、アンドロゲウスにクエリヌスを引き渡すよう命じるが、アンドロゲウスは裁判は自分のトリノヴァントゥムの宮廷で行うと拒否する。カッシベラヌスが戦争をちらつかせると、アンドロゲウスはカエサルに助けを求める。 カエサルはルトピエ港(Rutupiæ、現リッチボロー Richborough)に上陸し、3度目の侵略を始める。カッシベラヌスの軍がカエサルの軍とぶつかった時、アンドロゲウスが背後から5,000の兵力で攻撃を仕掛ける。戦列が乱され、カッシベラヌスは近くの丘の頂上に逃げ、2日間の包囲の後、カッシベラヌスは銀3,000リブラを支払うことに同意し、和睦する。 6年後、カッシベラヌスは亡くなり、ヨークに埋葬される。アンドロゲウスはカエサルとローマに行き、ブリタニア王はテンアンティウスが継承する。
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『ブリタニア列王史』
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「モルドレッド」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説
裏切り者としてのモードレッドは、ジェフリー・オブ・モンマスが1136年ごろに記述した偽史『ブリタニア列王史』に現れる。『ブリタニア列王史』はほぼ創作であるが、ドラマチックな内容から人口に膾炙した。この作品では、モドレドゥス(モードレッド)は、ロージアン王ロットとアーサーの妹アンの間に出来た二人の息子の一人であり、実兄にガウェインがいる。モードレッドは、卑劣な裏切り者ではあるものの、「最も果敢な男」「最も攻撃を仕掛けるのに素早い男」と血気盛んな猛者であるとして描かれている。また、『カンブリア年代記』と違って、ジェフリーは裏切りの舞台設定を西暦542年としている。 ある時、アーサー王はローマ皇帝ルキウス・ティベリウス(架空の人物)を討つために、甥のモードレッドと王妃グィネヴィアに国政を任せる。 アーサーは首尾よくルキウスを倒し、さらにその次の夏にローマへ進軍中、アルプスへ入る頃、甥モードレッドの反逆を知る。モードレッドが自ら玉座を奪い、さらに王妃グィネヴィアも夫を裏切ってモードレッドの妻となったというのである。 裏切りを知ったアーサーはブリテンに急いで向かうが、モードレッドはサクソン人の首長ケルドリックをゲルマニアに向かわせて、ブリテンの土地の一部を約束に軍勢を集めさせる。ケルドリックは八百隻の大艦隊を用意、さらにモードレッドはスコットランド人・ピクト人・アイルランド人などの反アーサー勢力を統合し、その軍勢は八万人を数えた。リッチボローから上陸したアーサーとモードレッドの戦闘は激戦になり、アーサー側はガウェインを失うなどの大打撃を受けるが、最終的にモードレッド側が敗走し、ウィンチェスターに逃げ込む。モードレッドの敗走を知ったグィネヴィアは彼を見限り、ヨークから逃げて尼僧になる。 怒り狂ったアーサーはさらにウィンチェスターに総攻撃を仕掛け、モードレッドはコーンウォールへ向かって遁走。しかし、アーサーに先回りされカンブラ川(カムラン)に陣取られたモードレッドはついに決着を付けること決め、残る六万の兵士を再編成する。混戦の最中アーサーはモードレッドがいる部隊を認めると突撃し、モードレッドは死亡、アーサーもまた致命傷を負う。両軍とも各国の王侯を含む数千人の戦死者を出し、勝者の無い戦いになった。アーサーは傷を癒やすためにアヴァロンの島に運ばれる途中、コーンウォール公カドールの息子コンスタンティンに王冠を譲る。 モードレッドの二人の息子は、サクソン人を率いてなおも抵抗を続け、一人はウィンチェスターに、もう一人はロンドンに籠城したが、最終的に新王コンスタンティンに討伐される。そのコンスタンティンも、モードレッドの息子たちを教会の祭壇の前で殺害したことが災いして神の怒りに触れ、わずか三年後に自身の甥コナン(英語版)によって暗殺、ストーンヘンジに埋葬されてアーサー王伝説は幕を閉じる。 その後、裏切り者モードレッドの伝説は、遅くとも14世紀にはイタリアまで伝わった。例えば、ダンテの『神曲』「地獄篇」第三十二曲61〜66行では、裏切り者が堕ちる地獄の最下層コキュートスの第一円「カイーナ」で、「アルツーの手にかゝりたゞ一突《ひとつき》にて胸と影とを穿たれし者」(山川丙三郎訳)が苦しみに喘いでいるという描写がある。
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『ブリタニア列王史』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/23 02:35 UTC 版)
ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』によると、リトーは自分が殺した王たちのひげで毛皮の外套をつくり、アーサー王にすみやかに自分のひげをはぎ取って自分に差し出すように命じた。しかしアーサーは戦いでリトーを倒したという。
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