『ブリタニア列王史』とは? わかりやすく解説

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『ブリタニア列王史』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 14:02 UTC 版)

コンスタンティン3世」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説

ジェフリー・オブ・モンマスは、1136年ごろに著した偽史『ブリタニア列王史』で、コンスタンティンアーサー王後継者位置付け以降この創作史実として誤伝されるようになった一方でジェフリーコンスタンティンには、ギルダス報告する歴史的暴君としての側面残っている。同書では、コンスタンティンコーンウォール公カドー息子とされている。カドーはまたアーサー王妃グィネヴィア養父であったとあるから、コンスタンティンはいわばアーサー義理の兄のような立場にある。 西暦542年アーサー王カムランの戦いカドーを含む大量側近失い、さらに裏切り者の甥モードレッド相討ちになる。王は致命傷癒やすためにアヴァロン護送される途中カドー息子コンスタンティン王冠譲り渡す新たなブリテン王として即位したコンスタンティンは、モードレッド残存勢力であるサクソン人駆逐次いでモードレッド二人の息子それぞれウィンチェスターロンドン教会逃げ込んだため、彼ら二人教会祭壇の前で殺す。しかし、これが神の怒り触れてコンスタンティンはそのわずか三年後に甥のコナン(アウレリウス・コナヌス(英語版))によって殺害され王座簒奪される。遺骸はとある巨石建造物先々代の王ユーサー・ペンドラゴンの側に葬られ、現在(ジェフリー著述した時点で)その遺跡イングランドストーンヘンジとして知られている。 なお、『ブリタニア列王史』では、彼は同名ブリテン王の三人目であるため、コンスタンティン3世ということになる。コンスタンティン1世は、ローマ元老院議員コンスタンティウスヘレナ息子すなわちローマコンスタンティヌス大帝である。コンスタンティン2世は、ローマ将軍ブリタンニア駐在中にローマ皇帝コンスタンティヌス3世僭称した人物比定されている。

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『ブリタニア列王史』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 09:01 UTC 版)

ヘンギストとホルサ」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説

ジェフリー・オブ・モンマス書いた偽史『ブリタニア列王史』では、ヘンギストとホルサ第6巻および第8巻登場する『ブリトン人の歴史』語られ伝説がさらに拡張されているため、以下の内容は非常に史実性乏しいことに注意が必要である。

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『ブリタニア列王史』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/30 14:42 UTC 版)

アーサーの甥、ガウェインの成長記」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説

少なくともガウェインがスルピキウスローマ教皇(Sulpicius。実在教皇の名ではない)のもとで教養をうけたこと、ローマで騎士の位を受けたことは、上述ジェフリー・オブ・モンマス『ブリタニア列王史』にも記述されている。『ガウェイン成長』は、『ブリタニア列王史』より後に著作され、ガウェイン卿のこうした出自について肉付けして書き増ししているのである。 『ブリタニア列王史』の内容アングロ=ノルマン語翻案したウァースブリュ物語や、その中英語への翻案であるラヤモン(英語版)の『ブルート』(英語版)にも、当然ながら、ガウェインローマで教養受けた話は(多少脚色くわえて伝えられている。

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『ブリタニア列王史』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 14:28 UTC 版)

カッシウェラウヌス」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説

カッシウェラウヌスジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』に登場する。ただしスペルは「Cassibelanus(カッシベラヌス)」(またはCassibelaunus(カッシベラウヌス)」)となっている。カッシベラヌスはヘリ王(Heliの子で、兄のルッド王の死後、ブリタニア王になる。ルッドにはアンドロゲウス(『ガリア戦記』に出てくる実在トリノヴァンテス族の王マンドゥブラキウス)とテンウァンティウス(Tenvantius、実在のカトゥウェッラウニ族の王タスキオウァヌス(Tasciovanus))という2人の息子がいたが、2人とも年が若かった。アンドロゲウスはケント公・トリノヴァントゥム(Trinovantum、現ロンドン公に、テンアンティウスはコーンウォール公になる。 ガリア征服後ユリウス・カエサルブリタニアにやって来て、カッシベラヌスに服従するよう手紙を送る。カッシベラヌスは、ブリトン人ローマ人は同じトロイ末裔トロイのブルータス参照)だと主張し、それを拒否するカエサルテムズ川入り江侵略し戦闘が始まる。カッシベラヌスの兄弟ネンニウスNennius)がカエサルとあいまみえるカエサルの剣がネンニウスから抜けなくなる。ネンニウス自分の剣を捨てカエサルの剣でローマ兵を多数殺害する殺され中にはトリブヌス・ミリトゥムラビエヌス(Labienus)もいた。カエサルガリア敗退する。カッシベラヌスは勝利を喜びたいが、ネンニウスの死で複雑な思いである。ネンニウス埋葬する時、クロケア・モルスという名称のカエサルの剣も一緒に埋められた。 2年後カエサルさらなる大軍率いて侵略してくる。事前にそれを察知したカッシベラヌスは、カエサル船隊破壊しようテムズ川喫水線の下に植え込む作戦成功し数千ローマ兵が溺死するローマ軍は再び敗走するブリトン人指導者たちはトリノヴァントゥムに集まり自分たちを勝利導いた神々感謝捧げ多く動物生贄にし、スポーツ競技を催す。レスリング試合の時、カッシベラヌスの甥ヒレルグラスがアンドロゲウスの甥クエリヌスに殺される。カッシベラウヌスは裁判のため、アンドロゲウスにクエリヌスを引き渡すよう命じるが、アンドロゲウスは裁判自分のトリノヴァントゥムの宮廷で行うと拒否する。カッシベラヌスが戦争ちらつかせると、アンドロゲウスはカエサル助け求める。 カエサルはルトピエ港(Rutupiæ、現リッチボロー Richborough)に上陸し3度目侵略始める。カッシベラヌスの軍がカエサルの軍とぶつかった時、アンドロゲウスが背後から5,000兵力攻撃仕掛ける。戦列乱され、カッシベラヌスは近くの丘の頂上逃げ2日間の包囲の後、カッシベラヌスは銀3,000リブラ支払うことに同意し和睦する6年後、カッシベラヌスは亡くなりヨーク埋葬される。アンドロゲウスはカエサルとローマ行きブリタニア王はテンアンティウスが継承する

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『ブリタニア列王史』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 00:32 UTC 版)

モルドレッド」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説

裏切り者としてのモードレッドは、ジェフリー・オブ・モンマス1136年ごろに記述した偽史『ブリタニア列王史』に現れる。『ブリタニア列王史』はほぼ創作であるが、ドラマチックな内容から人口に膾炙した。この作品では、モドレドゥス(モードレッド)は、ロージアンロットアーサーの妹アンの間に出来た二人の息子一人であり、実兄ガウェインがいる。モードレッドは、卑劣な裏切り者ではあるものの、「最も果敢な男」「最も攻撃仕掛けるのに素早い男」と血気盛ん猛者であるとして描かれている。また、『カンブリア年代記』違ってジェフリー裏切り舞台設定西暦542年としている。 ある時、アーサー王ローマ皇帝ルキウス・ティベリウス架空の人物)を討つために、甥のモードレッド王妃グィネヴィア国政任せる。 アーサー首尾よくルキウス倒し、さらにその次の夏にローマへ進軍中、アルプスへ入る頃、甥モードレッド反逆を知る。モードレッドが自ら玉座奪い、さらに王妃グィネヴィアも夫を裏切ってモードレッドの妻となったというのである裏切り知ったアーサーブリテン急いで向かうが、モードレッドサクソン人首長ケルドリックをゲルマニアに向かわせて、ブリテン土地一部約束軍勢集めさせる。ケルドリックは八百隻の大艦隊を用意、さらにモードレッドスコットランド人ピクト人アイルランド人などの反アーサー勢力統合し、その軍勢八万人を数えた。リッチボローから上陸したアーサーモードレッド戦闘激戦になり、アーサー側はガウェインを失うなどの大打撃を受けるが、最終的にモードレッド側が敗走しウィンチェスター逃げ込むモードレッド敗走知ったグィネヴィアは彼を見限りヨークから逃げて尼僧になる。 怒り狂ったアーサーはさらにウィンチェスター総攻撃仕掛けモードレッドコーンウォール向かって遁走。しかし、アーサー先回りされカンブラ川(カムラン)に陣取られモードレッドはついに決着付けること決め、残る六兵士再編成する混戦最中アーサーモードレッドがいる部隊認めると突撃しモードレッド死亡アーサーもまた致命傷を負う。両軍とも各国の王侯を含む数千人の戦死者出し勝者の無い戦いになったアーサーは傷を癒やすためにアヴァロンの島に運ばれる途中コーンウォール公カドールの息子コンスタンティン王冠を譲る。 モードレッド二人の息子は、サクソン人率いてなおも抵抗続け一人ウィンチェスターに、もう一人ロンドン籠城したが、最終的に新王コンスタンティン討伐される。そのコンスタンティンも、モードレッド息子たち教会祭壇の前で殺害したことが災いして神の怒り触れ、わずか三年後に自身の甥コナン英語版)によって暗殺ストーンヘンジ埋葬されアーサー王伝説幕を閉じる。 その後裏切り者モードレッド伝説は、遅くとも14世紀にはイタリアまで伝わった例えば、ダンテ『神曲』地獄篇第三十二6166行では、裏切り者堕ちる地獄最下層コキュートス第一円「カイーナ」で、「アルツーの手にかゝりたゞ一突《ひとつき》にて胸と影とを穿たれし者」(山川丙三郎訳)が苦しみに喘いでいるという描写がある。

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『ブリタニア列王史』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/23 02:35 UTC 版)

リトー」の記事における「『ブリタニア列王史』」の解説

ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』によると、リトー自分殺した王たちのひげで毛皮外套をつくり、アーサー王すみやかに自分のひげをはぎ取って自分差し出すように命じた。しかしアーサー戦いでリトー倒したという。

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