ベイドン山の戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ベイドン山の戦いの意味・解説 

ベイドン山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/07 13:17 UTC 版)

ベイドン山の戦い

大英博物館所蔵、サットン・フーで発見されたサクソンの兜
戦争:ベイドン山の戦い
年月日:西暦500年前後
場所:諸説あるが詳細は不明。
結果:ケルト側の勝利。サクソン人の領土拡張は数十年の間停止
交戦勢力
ケルト人 サクソン人
指導者・指揮官
不明。伝説によれば アーサー王 不明。チェルディッチなどとする説がある。
戦力
不明ではあるがかなりの規模 不明ではあるがかなりの規模
損害
不明 不明ながらも甚大

ベイドン山の戦い: Battle of Mons Badonicus, the Battle of Badon Hill)は、ブリトン人(ローマ化したケルト人)がアングロ・サクソン人を打ち破った戦い。時期としては、6世紀前後と見られるが、史書によって記述が一定しないため、正確な年代は不明。また、ベイドン山がどこにあったかという事実さえよくわかっていない。9世紀ごろから、ケルト側の指揮官にアーサー王がいたとされるようになった。

歴史資料

位置と年代

さまざまな資料があるが、ベイドン山の戦いが、いつ、どこで、誰を指揮官として戦ったのか、ということについて正確な記録はない。年代を特定しているものも、他の資料との整合性の問題からただちにその年代が正しいとは言えない状況にある。

『ブリトン人の没落』

ベイドン山の戦いについて記述されている最も古い記録はギルダスの『ブリトン人の没落(De Excido Britanniae)』である。この戦いでブリトン人が勝利した年は、ギルダスが生まれた年と同じであり、『ブリトン人の没落』が書かれた540年頃の43年1ヶ月前、つまり5世紀末であるとされている[1]。また、ギルダスはケルト側の指揮官が誰であったかという記述を書いていないため、この部分も不明であり、「包囲戦」との記述があるものの、誰が誰を包囲したのかすら不明である。また、ベイドン山の場所を具体的に特定することもできない。しかし、これでケルト側が勝ったことは読み取ることができる。

『ブリトン人の歴史』

時代が下って、9世紀にネンニウスが執筆した『ブリトン人の歴史』においてはベイドン山の戦いにアーサーが登場している。この書物によれば、ベイドン山の戦いは戦場を12回移して戦った最後の戦場であるという。アーサーについては、この戦いにおいて1人で960人(もしくは940人)の敵兵を倒したとの超人的な活躍をしたとの記述がある[2]。また、アーサーは王ではなく、単なる戦闘隊長になっている。

なお、戦場となった場所は、初めの戦場はグレイン川の河口、2番から5番目までがリヌイス地方を流れる川沿いのドゥブグラス、6番目がバッサスという川、7番目がケリドンの森、8番目がグレニオン、9番目がレギオンの街、10番目がトリブルイト川の岸、11番目がアグネットという山、そして最後の12番目の戦場がベイドン山であり、アーサーはこの全ての戦いで勝利したという。その結果、一時はサクソン人を駆逐したものの、サクソン人はゲルマニアから援軍を招き、最終的にはブリテンは支配されたという。

この12の戦場のうち、7番目の「ケリドンの森(silva Celidonis)」はスコットランドカレドニアの森英語版であるという説がある[3]。9番目の「レギオン市(urbe Legionis)」は「ローマの軍隊」を意味するため、ローマ軍の駐留地となった都市であると考えられる。一方で、ベイドン山などその他の戦場は不明である。もっとも、ベイドン山以前の11の戦闘については『ブリトン人の歴史』以外から見ることはできないこと、この時期にサクソン人がスコットランドやチェスターのような北部・西部に進出していたその信憑性が疑わしいため、信頼性にかなり疑問[要出典]がある。そのため、ベイドン山以外の戦場については、他の英雄の戦争が混在した、あるいは詩的表現としてキリのいい12という数字を作るための水増しではないかと考えられている[誰によって?]

『カンブリア年代記』

11世紀に成立した『カンブリア年代記』においては、ベイドン山の戦いの年代が516~518年であると記述しており、これを支持する見解[誰によって?]もある。しかし、この記述を採用すると、ギルダスの計算などと矛盾してしまう。また、『カンブリア年代記』にも、アーサーについての記述がある。これにはアーサーは三日三晩の間十字架を両肩で運んだこと、ブリトン人が勝利したこと、665年に第二次ベイドン山の戦いが行われたことが記載されている[4]

『ブリタニア列王史』

ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史Historia Regum Britanniae)』は偽書ではあるものの有名な本であり、多くの写本が残っている。『ブリタニア列王史』の日本語訳を行った瀬谷幸男は、ベイドン山の場所をバース付近であったと述べている[5]。この地でアーサーは、プリドウェン英語版の盾、名剣カリブルヌス、そしてロンと呼ばれる槍を携え、戦場へと向かった。アーサーはこの剣を抜き、聖母マリアの名を叫びながら、470人の敵を殺した。

ベイドン山の戦いの影響

ベイドン山の戦い後、しばらくたつと、アングロ・サクソン人によってブリテンは支配された。

  • アングロ・サクソンの年代記はベイドン山の戦いについてさしたる記述はないが、5、6世紀にはブレトワルダ(リーダー)の空位期間が70年あったとされている[誰によって?]
  • 他の物語においても、6世紀半にアングロ・サクソン人が、英仏海峡の向こう側に住み着くためにブリタンニアを出るというものが存在[要出典]する。

これらのことから、アングロ・サクソン人侵入においてある種の転機があったと考えられる[誰によって?]。また、非キリスト教的なアングロ・サクソンの墓地から集められた考古学的資料によって、アングロ・サクソン人と原住民の境界が500年代において押し戻され、移民計画が中断されたことが示唆されている[誰によって?]

アーサー王物語

アーサー王の業績として資料からほぼ確実といえるのは、このベイドン山の戦いでサクソン人と戦い、カムランの戦いで戦死、あるいは重傷を負ったということのみである。 このため、アーサー王をテーマにした作品では、ベイドン山の戦いが取り上げられることが多い[要出典]ブルフィンチ版では『ブリトン人の歴史』に依拠し、ベイドン山および11の戦場でアーサー王がサクソン人を打ち破ったと書かれているが、敵の指揮官が誰だったとか、戦いがどのように展開し、誰がどんな功績をあげたか、という具体的な記述は書かれていない[6]

映画『キング・アーサー』(2004年)でもこのベイドン山の戦いをメインにしている。マリオン・ジマー・ブラッドリーの『アヴァロンの霧』では、この戦いでアーサー王が十字架を担いだ(比較的後期の文献、カンブリア年代記など出典)、という故事から、ある種ケルト文化のキリスト教受容という契機を持たせている。

しかし、意外にもアーサー王物語の集大成と呼ばれるマロリー版にはベイドン山の戦いは一切出てこない。それどころか、アーサー王はサクソン人と戦ってすらいない。その代わり、ブリテン統一のため自分の即位に反対した王と戦い、その後ローマ遠征をしたことが書かれている。

脚注

  1. ^ ポール・ラングフォード英語版 原著監修、鶴島博和 日本語版監修『オックスフォード ブリテン諸島の歴史 第2巻 ポスト・ローマ』pp.37-38
  2. ^ 。1838年に出版されたラテン語版『ブリトン人の歴史』(Joseph Stevenson, ed. "Historia Britonum")では「nongenti sexaginta(960)」とあるが、1842年に出版された英語訳(J.A.ジャイルズ英語版"History Of The Britons")では「nine hundred and forty(940)とある。
  3. ^ Green, Thomas (2007). Concepts of Arthur, p. 64. Stroud, Gloucestershire: Tempus. ISBN 978-0-7524-4461-1
  4. ^ Williams, John, ed. "Annales Cambriæ"p.4, 8
  5. ^ ジェフリー・オブ・モンマスブリタニア列王史』p.353
  6. ^ トマス・ブルフィンチ著 大久保博 訳『《新訳》アーサー王物語』pp.25-26

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ベイドン山の戦い」の関連用語

ベイドン山の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ベイドン山の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのベイドン山の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS