ブレトワルダ
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ブレトワルダ (Bretwalda) は、アングロサクソン社会の称号のひとつで、イングランドの七王国時代、アングロサクソン諸国の中でも最も勢力の強かった王のことを意味したと考えられている。上王や大王、覇王などと訳される。
- ^ しかしながらベーダが自らの著作『イングランド教会史』において、列記した王を「ブレトワルダ」とは呼んでいない。単に「インペリウムを保持した」人物として王の名を記述している。
- ^ 20世紀の史家フランク・ステントン(Frank Stenton)はアングロサクソン年代記を称して「年代記を書いた者たちの残した不正確さは、このような際立つ王たちに名づけられた英語の称号を残すために辻褄を合わせた以上の功績を後世にもたらした」と語り、ブレトワルダという用語は「最古のイングランド独自の社会制度がゲルマン起源のものであるという他の証拠を後押ししている」と書き残している。
- ^ 1995年にサイモン・ケイン(Simon Keyne)は「ベーダの書いた宗主と年代記のブレトワルダが人工的な用語で、この概念が記された文書以外には現実的に実在していなかったとするならば、現代の我々は文書に書かれた歴史の経緯をめぐる憶測問答から逃れうる事ができるだろう。しかし今度は我々は8世紀、9世紀の王たちが覇を唱える事に熱心であったかどうかという事に憶測に終始している事だろう。」と記している。
- 1 ブレトワルダとは
- 2 ブレトワルダの概要
- 3 宗主権
ブレトワルダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 10:01 UTC 版)
七王国時代に、諸王の間で台頭して他の王たちを臣従させた王をブレトワルダと呼ぶ。 サセックス王アエレ(477年 - 514年) ウェセックス王チェルディッチ(519年 - 534年) ウェセックス王チェウリン(560年 - 591年) ウェセックス王イネ(688年 - 727年) ケント王エゼルベルト(591年 - 616年) イーストアングリア王レドワルド(616年 - 627年) ノーザンブリア王エドウィン(627年 - 632年) ノーザンブリア王オズワルド(633年 - 641年) ノーザンブリア王オズウィ(641年 - 670年) マーシア王エゼルバルド(735年 - 757年) マーシア王オファ(757年 - 796年) エゼルバルドの従兄弟 ウェセックス王エグバート(828年 - 839年) ウェセックス王エゼルウルフ(839年 - 858年) エグバートの息子 ウェセックス王エゼルバルド(858年 - 860年) エゼルウルフの息子 ウェセックス王エゼルベルト(860年 - 866年) エゼルウルフの息子 ウェセックス王エゼルレッド(866年 - 871年) エゼルウルフの息子 9世紀半ばのデーン人の侵入後、諸王国で覇権を確立したウェセックス王がデーン人と戦い、次第に統一イングランド王国を形成していった。
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ブレトワルダ
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後年の731年頃、ノーサンブリアの修道士にして年代史家のベーダは、「イングランド教会史」を書いた。これには、世俗的なことだけではなく、アングロサクソン人の歴史に関する多くのことが記されており、その中で「ハンバー川より南のインペリウムを保持した7人の王」に関しても触れている。この「インペリウム」を現在の解釈では「宗主権」と訳しているが、チェウリンはベーダの記した列記の2番目に登場する。その中でチェウリンは「サエリン (Caelin)」の綴りで書かれているが同時に、「かの地の人々の言葉ではチャウリン (Caeulin) と呼ばれていた」とも書かれている。ベーダはまた、チェウリンはキリスト教徒ではなかったと明記しており、最初にキリストに帰依した人物は、チェウリンの時代よりも後年ケント王のエゼルベルトを「神の国に入られた最初の人物」としている。 アングロサクソン年代記の827年の項目にベーダの記した列記とほぼ同じ形(エグバードを加えた形で)が載せられている。そしてここでは「ブレトワルダ」、または「ブリテン島の支配者」として知られていたと明記されており、この表現には、現在に至るまで学術的な関心が寄せられている。これを後年の年代史家の追従的な表現ととらえることもあったが、その称号の中にはっきりとした軍事的な役割があった証拠も挙がっている。 ベーダによれば、この王たちは「ハンバー川より南の」権限を有していたが、実際の支配領域は、少なくとも初期のブレトワルダにおいては、間違いなくそれには及ばなかった。チェウリンの場合、実際に支配していた領域を正確に把握するのは難しいが、ベーダがチェウリンをインペリウムを有した諸王の一人として選んでいること、チェウリンが関わった戦争が勝利として記録されていること、チェウリンがテムズ川上流域を基盤として周囲の大部分を支配下に置き、一定期間南イングランドに覇を唱えたことから、チェウリンが行動力のある成功した指導者であったことは読んで取れる。しかし、このような軍事的な成功にもかかわらず、チェウリンの北部における活動は維持されることはなかった。すなわち、後年には、テムズ川流域のほとんどはマーシアの支配下になったし、571年にウェセックスが獲得した東南部の都市の大部分はケントやマーシアの支配下となってしまった。 なお、ベーダの描く宗主の権威はチェウリンの生きた8世紀の見方である。「イングランド教会史」の執筆された時代、ハンバー川以南に覇を唱えたのはマーシア王国のエゼルバルドであり、ベーダの描いた昔の王たちの記述は、この当時のイングランドの政治情勢に間違いなく大きな影響を受けており、ベーダの描くエレやチェウリンのような初期のブレドワルダたちの肖像に多少時代錯誤な要素が含まれているのは明らかである。またベーダの描くブレトワルダは覇を唱える対象をアングロサクソン諸国のみと考え、ブリトン人諸国は対象外としていた可能性も見受けられる。 チェウリンはベーダの列記の2番目に来る人物である。全てのブレトワルダたちの在位帰還は大なり小なり連続して続いているが、最初のブレトワルダであるサセックス王エレと次のウェセックス王チェウリンとの間の50年間の開きがある。この後のブレドワルダたちが空白なしで継続されていることが後世に執筆された年代記の年代が実際のチェウリンの関与したであろうとする年代と食い違っているのではという疑問が生じている。この分析によると、以下の結果が見えてくる。 グレゴリウス1世がケント王エゼルベルトに文を送った601年の時点ですでにエゼルベルトは次のブレトワルダとして覇を唱えていたのは間違いはない。というのは法王たるグレゴリウス1世はケント王国という一地域の王程度に文を送ることはありえないからである。 年代記では前述のウィバウンダンの戦い(568年)にチェウリンはエゼルベルトを敗ったことになっている。すなわち、この戦いはチェウリンとエゼルベルト、新旧のブレトワルダ双方が関わった戦いである。 エゼルベルトの関わる年代の正確性にも疑問視がされているが、最近の研究でエゼルベルトの治世の始まりは早くても580年以前ではないとしている。 『西サクソン王族系譜目録』ではチェウリンの治世は7年か17年とされているので、ウィバウンダンの戦いが568年に起こることはありえない。 このことから、ウィバウンダンの戦いがその勝敗を度外視して590年くらいの出来事だと仮定すれば、それはエゼルベルトが覇権を握る以前、そして年代記で続いて書き綴られているチェウリンの退位と死去へと連続的に続き、許容できうる範囲での整合性が出てくる。いずれにせよ現在ではウィバンダムの戦いは590年をはさんでの数年間以内の出来事であったことはほぼ確実視されている。 もうひとつの差異、アエレとチェウリンとの間の空白期間は、ギルダスの著作De Excidioの記述にモンス・バドニクスの戦いでアングロサクソン人がブリトン人に敗れ、平和が一世代以上続いたことからありえることと考えられている。 チェウリンはケント王国のエゼルベルトにブレトワルダ位を奪われるが、二人の在位は一時期重なっている。最近の鑑定ではチェウリンの在位は581年から588年までとし、589年頃エゼルベルトが王位に就いたのだろうと考えられている。しかし、このような計算は学術上の推測にしか過ぎない。そして592年息子チェオルによるチェウリンの退位、ここからエゼルベルトの台頭が始まった可能性がある。少なくとも597年の時点までにはエゼルベルトはアングロサクソン諸国を圧倒する存在となっていたことは確実視されている。あるいはエゼルベルトの在位はもっと早かったかもしれない。年代記の584年のフェサン・レアグの項目で『チェウリンの最後の勝利』と書かれているからである。この期間の間にエゼルベルトの台頭そしてチェウリンの失墜が起きた可能性はある。
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