ブレトンウッズの陰で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 05:05 UTC 版)
「エドワード・ジョンソン2世」の記事における「ブレトンウッズの陰で」の解説
フィデリティ・ファンドは1946年に特別株主総会を開いて、フィデリティ・マネージメント&リサーチ・カンパニーを顧問会社とする契約を結んだ。顧問会社の役員はエドワードのほか、タリアフェッロの秘書だったグウェン・シャノンや、マスミューチュアル生命保険副社長Homer Chapin の三人だった。エドワードの組むポートフォリオは温故知新というべきものだった。ファンダメンタルに着目して、ボストンの流儀に従った公益事業や鉄道だけでなく、映画やキャンプ用品といった国民嗜好銘柄も選び取った。インコーポレイテッドとは仲たがいしたが、その親会社Massachusetts Investors Trust とは地縁があった。MITの会長がパートナーであるGaston & Snow 法律事務所を重用したのである。個人的にエドワードが投資信託を依頼しさえした。エドワードはミルトン貯蓄銀行の管財人もやっていた。 1950年から株価が上昇し、現メロン財閥のドレフュス商会がミューチュアル・ファンドを売りまくった。エドワードは1957年にフィデリティ・キャピタル・ファンドをつくって、Gerald Tsai に運営させた。上海生まれのツァイは現ワコビアのBache & Co. で経験を積んでいたが、フィデリティへ入社後アクティブなブロック取引を当然のように行い業界の注目を浴びた。しかしツァイは1965年までに独立した。結局、エドワードはネッド・ジョンソンという息子にフィデリティを任せた。 フィデリティには7人構成の投資委員会があった。Frank D. Mills はその一人として、フィデリティ系ファンド全体について、ポートフォリオへのイレギュラーな個別銘柄組み入れを認可する権限を与えられていた。1947年4月に設けられたピューリタンファンドは小粒で堅実な部門であったが、名前からしてボストン的な当ファンドのマネージャーがミルズであった。エドワードの親友ホーマー・チャピンが、ミルズへJerome Deutsch という男を引き合わせた。1967年12月、ミルズがピューリタンファンドの資産としてジェロームの約束手形を少し買った。ジェロームはミルズの許可を得て、この実績を営業に使い出した。翌年8月にかけてミルズは手形を買い増した。それにつれてジェロームの営業も調子付いた。そしてマスミューチュアルにも売ろうとした。この手形はミルズへ売ったときから、ジェロームの会社の株式を買えるコールオプションが付いていた。しかも、購入代金にその手形を充当できることになっていた。 おいしすぎる手形を前に、マスミューチュアルのコンプライアンス担当が申出を拒んだ。9月下旬、チャピンが状況をミルズに話した。ミルズは会社に黙って、フィデリティ系ファンド資産を預かる信託銀行から資金を借り入れ、手形を購入した。このころエイブラム・ポメランツがフィデリティをふくむ多くの投信会社を訴えだした。証券取引委員会も互恵ビジネスを看過できなくなり、1968年7月の公聴会にエドワードを召還して説明させた。1969年4月、ミルズは8日でフィデリティを辞めて、3日後利益相反に関する1940年投資会社法等違反容疑で刑事告訴された。司法取引が行われ、訴因の一部は取り下げられた。1971年6月4日、ポメランツを原告とする控訴審でフィデリティが敗けた。判決主文によると、フィデリティの経営陣は社外取締役に情報を全て開示する義務を負っており、経営陣とファンドの間に利益相反のある点についても同様であるということだった。エドワード親子と会社が互恵ビジネスについてその義務を怠ったのは、投資会社法に照らして著しい不正であると処断された。
※この「ブレトンウッズの陰で」の解説は、「エドワード・ジョンソン2世」の解説の一部です。
「ブレトンウッズの陰で」を含む「エドワード・ジョンソン2世」の記事については、「エドワード・ジョンソン2世」の概要を参照ください。
- ブレトンウッズの陰でのページへのリンク