フィデリティ・ファンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 05:05 UTC 版)
「エドワード・ジョンソン2世」の記事における「フィデリティ・ファンド」の解説
サミュエル・ジョンソン(1860-1932)の一人息子として生まれた。姉妹が4人いた。少年時代、フォーブズ家とラッセル商会の力で再興したミルトン・アカデミーに通い、理系科目に才能を示した。第一次世界大戦中ハーバード大学に在学していた。フィデリティの公表によると、1917年8月に米海軍の予備隊で二級無線手として徴兵され、翌年英海軍に移り北海での護送任務に携わった。1918年7月に復学した。翌年、父親がHovey 百貨店を売却した。1920年秋にハーバード・ビジネス・スクールへ進学。1924年6月ごろに卒業し、10月に結婚した。就職先はRopes & Gray 弁護士事務所であった。公益企業の巧妙なトラスト化を専門に、投資信託を請け負って成功した。閨閥の力で、事務所からは個人的な資産運用をする時間をもらっていた。世界恐慌が本格化する前に株式を手仕舞い難を逃れた。 1930年5月、ボストンにある二つの証券会社が合併した。Taliaffero, Millet & Company とAnderson & Cromwell である。合併当初、フィデリティ・シェアーズという社名であった。9月フィデリティ・ファンドに改めた。無借金で、権利付き株式を創設時の役員4人が独占する、同族会社の典型であった。1933年、証券取引委員会に登録申請した。委員会側の記録によると、アンダーソン・クロムウェルがファンドの運用実権をもっていた。ファンドの販売網はタリアフェッロが握っていた。運用と販売の住み分けが出来る前、ファンドの主導権はタリアフェッロがもっていた。その主導権により、ファンドはJackson & Curtis(現UBS)の代理店となっていた。このタリアフェッロ側役員と親しくなり、エドワードは1943年にフィデリティ・ファンドの社長となった。このころ、エドワードはIncorporated Investors(世界初のミューチュアル・ファンド)で役員を務めたり、Charles Fox Hovey家の投資信託を請けたりもしていた。そして、フィデリティ・ファンドに関する委員会側の記録が数年にわたり欠落するのもこの頃からである。アメリカ国立公文書記録管理局の記録では、7月7日にタリアフェッロ側役員が手切れ金の3300ドルを受け取りエドワードへ社長職を譲っていた。1944年、フィデリティは大幅に増資。インコーポレイテッドの顧客を奪うようになり、対立して、1945年9月1日にそこの役員を辞めた。
※この「フィデリティ・ファンド」の解説は、「エドワード・ジョンソン2世」の解説の一部です。
「フィデリティ・ファンド」を含む「エドワード・ジョンソン2世」の記事については、「エドワード・ジョンソン2世」の概要を参照ください。
- フィデリティ・ファンドのページへのリンク