メザーフェルスの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/01 07:20 UTC 版)
エオワに関する資料はわずかで、同時代の主要な資料であるベーダの『英国民教会史』および『アングロサクソン年代記』にはエオワの事績やメザーフェルスの戦いに加わったこと、そこで戦死したことなどについての記述がなく、マーシア王であったことも書かれていない。『年代記』にはエゼルバルドおよびオファの系譜をたどる中でエオワの名が出てくるが、『教会史』にはそうした記述もない。 『ブリトン人の歴史』65章にはエオワの死について、次のような記述がある。「彼(ペンダ)はコクボイ(Cocboy)の戦いを行って、その中でピッパの息子で、彼の兄であるマーシアの王エアワ(=エオワ)とノルド人の王オズワルド(英語版)を殺害し、悪魔の術によって勝利者となった。」 『カンブリア年代記』(644年の項)には「Cogfryの戦いで、ノルド人の王オズワルドとマーシア人の王エアワが命を落とした」との記述もある。 これら二つの資料によれば、エオワは642年(諸説あり)8月5日のメザーフェルスの戦い(Battle of Maserfield、マゼルフェルド、メイサフィールドの戦いとも)の当時マーシアの王であり、弟のペンダによって殺害されたことになる。 エオワとノーサンブリア王オズワルドの死についての記述は極わずかなため、戦いに至る経緯などは不明である。エオワはペンダと共同でのマーシア王、あるいはペンダの上王だったとする説(これはなぜ『ブリトン人の歴史』がペンダの在位期間をメザーフェルスの戦いの後からとしているかの理由ともなる)や、エオワはオズワルドに従属しておりメザーフェルスではオズワルドと同盟を組んでペンダと戦ったとする説もある。また、マーシアにはこの頃まで共同王位制の慣習があったことから、ペンダとエオワはマーシアの南と北を別々に統治していた可能性もある。イギリスの中世史家ニコラス・ブルックス(Nicholas Brooks)は、もしエオワが635年からメザーフェルスまでの期間王位に就いていたとしたら、ウェールズがマーシアを襲撃した際に「書物を抱えた修道士たち」が惨殺されたといわれる出来事を説明できるとした。つまりブルックスは、もしエオワがノーサンブリアの傀儡(従属的な王)であったならオズワルドがマーシアでキリスト教布教を促進しようとした可能性があり、従って当時まだ異教徒の国であったマーシアに修道士の存在したことも説明がつく。ペンダはウェールズと同盟関係にあったことは資料から知られており、これと修道士の存在とから、襲撃はペンダ治世の出来事ではなさそうだと述べている。 エオワの血筋は死後も断えずに残り、ペンダの孫チェオルレッド(Ceolred)が死去した716年からは、エオワの子孫であるエゼルバルド、オファ、エグフリスが続いてマーシア王となった。
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