共同王位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 00:33 UTC 版)
434年、ルーア王が死去し、フン族全体を統べる者として甥のブレダとアッティラが残された。兄弟は即位すると、逃亡者(主にローマ側に雇われていたフン族兵士)の送還について、東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世の使節と取り引きを行っている。翌年、アッティラとブレダ兄弟はマルゴス(現ポジャレヴァツ)で、フン族の慣習に従って騎乗にて帝国使節団と会見し、ローマ側は逃亡者たちを送還するだけでなく、ルーア王に納めていた貢税を倍額の金700ローマ・ポンド(250 kg)とし、市場のフン族商人への開放およびローマ人捕虜1人当たり8ソリドゥス金貨の身代金の支払に同意する、フン族に有利な条約を結んだ。送還された逃亡者の中にいた2人の王族の少年は、十字架にかけられて処刑された。フン族は条約に満足して東ローマ領から立ち去り、おそらく自らの帝国を固め強化するためにハンガリー平原へ戻った。テオドシウス帝はこの機会を利用してコンスタンティノープルの城壁の強化、最初の海上城壁の建設、そしてドナウ川沿いの国境陣地を構築した。 フン族は436年にはブルグント王国に侵攻し、グンダハール率いるブルグント軍を壊滅に追い込んでいる。 その後数年間、フン族はサーサーン朝を侵略したため、ローマは彼らの視野の外にあったが、アルメニアでサーサーン朝に敗退したため、東への侵略を放棄して再び関心を西のヨーロッパへ戻した。440年、マルゴスの司教がフン族の王族の墓を暴いて財宝を奪ったとして、ブレダとアッティラは罪人の引き渡しを求め、これを口実にフン族は再びローマ国境に現れ、条約によってつくられたドナウ川北岸の市場の商人たちを攻撃した。彼らはドナウ川を渡って川沿いのイリュリア諸都市や砦を略奪し、モエシア(現セルビア-ブルガリア)のウィミナキウム(現コシュトラッツ)は完全に破壊された。フン族がマルゴスを攻めた時、引き渡しを求められていた司教が、密かにフン族から助命の約束を得て城門を開き、町は陥落した。 フン族がドナウ川の防衛線を制圧した440年頃、ガイセリックに率いられたヴァンダル族が西ローマ帝国アフリカ属州の首都カルタゴを占領しており、441年にはサーサーン朝のシャー・ヤズデギルド2世がアルメニアを侵略していた。ローマ帝国の最も豊かな州かつ主要な食糧供給地であったアフリカ属州をヴァンダル族から奪い返すために、バルカン半島の軍隊は駆り出されており、アッティラとブレダがイリュリアを経てバルカンへ侵攻する道は開かれていた。マルゴスとウィミナキウムを略奪したフン族は、シンギドゥヌム(現ベオグラード)とシルミウムを奪取した。 騒乱は442年にも続いたため、テオドシウス帝はシチリアから軍隊を呼び寄せ、また戦争の財源として新貨幣を大規模に発行した。これにより彼はフン族の要求を拒否しても安全だと考えた。ブレダとアッティラは443年の戦役でこれに応えた。フン族はドナウ川沿いを攻撃してラチアリア(現アルカール)の軍事拠点を蹂躙し、破城槌と攻城塔を用いて(フン族にとっては最新の軍事技術だった)ナイスス(現ニシュ)の包囲を成功させた。次いでニシャバ川沿いを進軍してセルディカ(現ソフィア)、フィリッポポリス(現プロヴディフ)そしてアルカディオポリスを占領した。フン族はコンスタンティノープル城外で東ローマ軍と遭遇してこれを撃破し、コンスタンティノープルの城壁の前でようやく止まった。別の東ローマ軍もカリポリス(現ゲリボル)で敗北し、もはや対処すべき軍隊を持たないテオドシウス帝は敗北を認め、廷臣アナトリウスを送り講和交渉をした。講話条件は以前の条約よりも厳しいものになり、皇帝は侵略時の条約不遵守の賠償として金6,000ローマ・ポンド (2000 kg) の支払いを認めた。貢税の年額は3倍にされ、金2,100ローマ・ポンド (700 kg) となった。さらにローマ人捕虜の身代金は一人12ソリドゥス金貨に引き上げられた。要求は当分の間満たされ、二人のフン王は彼らの帝国内へ引き上げた。 歴史家ヨルダネスによると、フン族が東ローマ帝国から引き揚げた和平期間(445年頃)中にブレダが死に(ローマ側の史料では弟が仕掛けた狩猟中の事故で殺されたとある)、アッティラがフン族の単独統治者となった。
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