アッティラ統治下の統一帝国
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「フン族」の記事における「アッティラ統治下の統一帝国」の解説
詳細は「アッティラ」を参照 アッティラの指導の元でフン族は複合弓と優れた馬術による伝統的な騎乗弓射戦術を用いて対抗勢力に対する覇権を確立した。フン族はローマ諸都市からの略奪と貢納金によって富を蓄えて、ゲピド族、スキール族(英語版)、ルギイ族(英語版)、サルマタイ族、東ゴート族といった従属部族の忠誠を維持していた。フン族の状況に関する唯一の長文の直接的な文書は、アッティラへの使節の一員だったプリスクス(英語版)によるものである。 434年にルーア王が死去して、甥のブレダとアッティラの兄弟が共同王位に就いた。即位直後にブレダとアッティラは東ローマ帝国の貢納金を倍額にさせる有利な協定を結んだものの、440年に和平を破って東ローマ帝国へ侵入してバルカン半島一帯を荒らしまわった。東ローマ帝国軍は敗退し、443年に皇帝テオドシウス2世は莫大な貢納金の支払いを約束する条約の締結を余儀なくされた。445年頃にブレダが死に、アッティラの単独統治となった。447年、アッティラは再び東ローマ領を侵攻して略奪を行い、東ローマ帝国軍を撃破している。 451年、アッティラは西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入した。カタラウヌムの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。 翌452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を劫略するが、教皇レオ1世の説得により引き返す(実際は、フン族の陣営に疫病と飢餓が発生していたと見られている)。 パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図するが、翌453年に自身の婚礼の祝宴の席で死亡した(脳出血または脳梗塞という説が有力である)。 ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになったとされる。
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