アッティラ以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:53 UTC 版)
アッティラの死後、彼の息子のエラクが兄弟のデンキジック(英語版)およびイルナック(英語版)との争いに勝ってフン族の王となった。だが、従属部族たちがゲピド族長アルダリック(英語版)の元に集まり、454年にネダオ川でフン族に挑んだ(ネダオ川の戦い(英語版))。フン族が敗れ、エラク王も戦死したことによりヨーロッパにおけるフン族の覇権は終わり、それからほどなくして同時代の記録から彼らは消え失せた。パンノニア平野は東ゴート族にトランシルヴァニアはゲピード族に占領され、その他の諸部族も中央ヨーロッパ各地に割拠した。 後代の歴史家たちは、アッティラの民たちの離散と解明についての一瞥を提供している。伝統に従ってエラクの死後、彼の兄弟たちは2つに分離しているが近く関係する遊牧集団を黒海北方の平原で率いた。デンキジックはクトリグール(英語版)・ブルガール族およびウトリグール(英語版)・ブルガール族の王(カーン)となったと信じられ、一方プリスクスはクトリグール族とウトリグール族はイルナックの2人の息子に率いられ、彼らにちなんで名づけられたと主張している。このような区別は不明確であり、そして状況はそれほど明快ではなさそうである。[要出典] デンキジックとイルナックに率いられたフン族の一部は、パンノニアの東ゴート族に復讐を挑むが撃退され、ダキア・リペンシス(英語版)やスキュティア・ミノル(英語版)といった東ローマ帝国領へ避難した。おそらく、その他のフン族と遊牧集団はステップへ撤退した。事実その後、クトリグール族、ウトリグール族、オグール族(Onogur)、サダギール族(Sarigur)と云った新たな同盟が出現し、これらはひとまとめに「フン族」と呼ばれている。同時に6世紀のスラブ人たちも、プロコピオスによってフン族として紹介されている。[要出典]
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