アッティラ作戦とアントン作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:53 UTC 版)
「トゥーロン港自沈」の記事における「アッティラ作戦とアントン作戦」の解説
1940年12月10日、ヒトラーはもし今後北アフリカのフランス植民地が占領されるか離反した際に、速やかに地中海沿岸の防衛体制を固めるため、ヴィシー政府管理地域を含めフランス全土を占領下に置くアッティラ作戦の検討を命令した。作戦発動の際にはトゥーロンに集められているヴィシー政府の艦隊が北アフリカへ脱出するのも何らかの方法で阻止する必要があると認識されたが、この時点のドイツ軍にはそれを可能にする海軍力も空軍力もなく、作戦自体が1941年2月に無期限延期となった。しかし1941年12月、アメリカの参戦により連合国軍の北アフリカ侵攻の脅威が増したことでヒトラーは作戦の再検討を指令。1942年5月29日、より内容を詰めたアントン作戦が策定された。同作戦ではドイツ軍とイタリア軍が協力してフランスの地中海沿岸部を占領、併せてヴィシーも支配下に置いて首班ペタン以下のフランス政府を無力化することが定められていた。 1942年8月10日、アントン作戦の準備は完了。北アフリカの戦局に変化があり次第、5日で作戦開始が可能な状況になっていた。
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