カタラウヌムの戦いとは? わかりやすく解説

カタラウヌムの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/01 03:59 UTC 版)

カタラウヌムの戦い

カタラウヌムの戦いでのフン族(黒)と西欧諸民族連合軍(グレー)の進路、およびフン族に脅かされるか、あるいは略奪された都市
戦争
年月日451年6月20日
場所シャロン=アン=シャンパーニュ
結果:戦術的引き分け。フン族の撤退。
交戦勢力
西ローマ帝国
西ゴート族
フランク族
ブルグンド族
サクソン族
フン族
東ゴート族
ルギイ族英語版
スキリア族
トゥリンギ族
アレマン族
ゲピド族
バスタルナエ族
ヘルリ族
指導者・指揮官
テオドリック1世
アエティウス
メロウェク
ゴンディオク
サンギバン
アッティラ
ウァラメール
アルドリク
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
突撃するフン族騎兵アルフォンス・ド・ヌヴィル画)

カタラウヌムの戦い(カタラウヌムのたたかい ラテン語: Pugna Catalaunica : Bataille des champs Catalauniques : Schlacht auf den Katalaunischen Feldern : Battle of the Catalaunian Plainsフランス語読みでシャロンの戦いとも、: bataille de Châlons : Battle of Châlons)は、451年6月20日、カタラウヌム平原にて行われた戦闘。

西ローマ帝国の将軍アエティウス西ゴート族族長テオドリック1世らが率いる反フン族連合軍と、アッティラ率いるフン族とその隷下の部族らが衝突した。

この軍事作戦は西ローマ帝国が行った最後の軍事遠征の一つとされているが、このローマ帝国軍の大半を占めるのは、ローマに忠誠を誓ったフォエデラティと呼ばれるゲルマン人部隊であった[要出典]

概要

451年アッティラの率いるフン族はライン川を渡り、ガリアに侵攻し、オルレアンを包囲した。西ローマ帝国の将軍アエティウスゲルマン諸族の軍と共にこれを討ちカタラウヌムの野(今の北フランスシャロン=アン=シャンパーニュ付近)で決戦した。激戦の末、アッティラは大打撃を受けて本拠のハンガリー平原に退き、西ローマ帝国はフン族の征服を免れることができたが、フン族の勢力は維持された。

ローマ軍側も追撃不可能なほどの被害を受けたことで、西ローマの勢力は弱まり、ガリアへのフランク族の侵入が始まることとなった。

戦いまでの経緯

450年頃まで、西ローマ帝国の威光はガリア地方の隅々にまで行き届いていた。しかし、遠く離れたイタリア本土からのガリア地方の統治は徐々に廃れていくことになる。時が進むにつれて統治力は低下し、アルモリカ地方は既に名目上、西ローマ帝国の領域なだけに過ぎなかった。また同時に、西ローマ帝国内の領土をゲルマン人各部族は武力をもって占領し、結果的にフォエデラティとしてローマ側と協定を結び、各部族長の下で定住し始めるようになる。

また、ライン川北部のクサンテンからレイエ川流域に至る領域はすでにサリアン系フランク人によって非公式に占領されていた。

戦闘

アッティラのガリア侵攻の報を耳にした当時の西ローマ帝国軍司令官アエティウスは、イタリア本土からガリアへ自軍を急展開させた。シドニウス・アポリナリスによると、アエティウスは少数の徴集兵だけで、通常兵は一人も率いていなかったと言う[1]。しかしこれは、『アエティウス配下の軍団の大部分はガリアに常駐していたから』とされている[2]。アエティウスはガリアに着くや否や、テオドリック1世西ゴート王国の緒王らに対してアッティラと戦うように説得した。

参戦民族

名言

  • 「我は第一の投槍を投ずるであろう。我に続くことを拒むものはただ死あるのみ」(アッティラが味方を鼓舞する際に言った言葉)

脚注

  1. ^ Sidonius Apollinaris, Carmina, 7.329.
  2. ^ Hughes, Ian (2012). Aetius: Attila's Nemesis. Barnsley, South Yorkshire: Pen & Sword Military. p. 159 

関連項目

外部リンク


カタラウヌムの戦い

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アエティウス」の記事における「カタラウヌムの戦い」の解説

この頃までは、フン族アエティウス良好な関係を保っていた。アエティウスフンアッティラ元へ秘書官としてコンスタンティウス送っていた。449年アエティウスから送られていた秘書官コンスタンティウスによって金の皿が盗まれたとアッティラが怒る事件があり、アエティウスアッティラ宥めるためにタトゥルスやロムルスイタリア語版)ら使節団派遣したアッティラ返礼としてムーア人小人ツェルコを贈りアエティウスは彼を元の主人アスパル (en) へ返している。 弟である皇帝ウァレンティニアヌス3世恨み抱いた姉のホノリア (en) が、フンアッティラ助力求めるため、指輪持たせた使者送ったアッティラはこれを「求婚」と解釈しウァレンティニアヌス帝に西ローマ帝国半分持参金として要求したウァレンティニアヌス帝はこの求婚不法とする返答をしたが、アッティラはこの求婚口実に、従属部族を動員して西ローマ帝国侵略開始した451年アッティラガリア侵攻をした時のローマ帝国ガリア軍司令官アエティウスだった。フン族大軍幾つかの都市攻略しつつオルレアン進軍した。この時、同地定住するアラン族アッティラ側へ寝返る用意をしていた。 アエティウス有力なガロ=ローマ人である元老院議員アウィトゥス (en) の助け受けて西ゴートテオドリクス1世 (en) に外敵脅威対抗するために参戦するよう説得したアエティウスはまたアラン王サンギバン (en) の軍勢が、アッティラ率いフン族合流するのを妨害することに成功した。そして、ローマ西ゴート連合軍は、フン族包囲下にあるオルレアン救援向かい包囲放棄させて平野部へと退却させた。 6月20日アエティウステオドリクスはカタラウヌムの戦いでアッティラとその同盟部族打ち勝った。この戦いでテオドリクス戦死しアエティウステオドリクス王子トリスムンド (en) に、王位確保するため直ちトゥールーズ西ゴート王国首都)へと帰還するように勧めたこの為アエティウス戦利品独り占めしたと言われた。 帰還したアッティラ452年に、再びホノリアとの結婚主張したアエティウスイタリアへ進攻路であるアルプス通過を防ぐための必要な手立て取っていなかったので、アッティライタリア侵入して多く都市略奪しはじめたアクイレイアは完全に破壊されそれ以外の諸都市フン族通過した後には何物も残らなかった。ウァレンティニアヌス帝はラヴェンナ捨ててローマへ逃れた。この時のアエティウスには戦うべき戦力欠いていた。アッティラポー川停止し、ここで彼は地方総督トリゲティウス(Trigetius)、元執政官アヴィエヌス(Aviennus)そして教皇レオ1世使節会見した。この会見の後、アッティラはホノリアも彼が望んだ領土も得ることなく軍を返した。翌453年アッティラは自らの婚儀祝宴夜に急死した

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