ガリア侵略とカタラウヌムの戦い
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「アッティラ」の記事における「ガリア侵略とカタラウヌムの戦い」の解説
450年、アッティラはトゥールーズの西ゴート王国を攻撃する意図を宣言し、西ローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス3世と同盟を結んだ。西ローマ帝国及びその実質的支配者のフラウィウス・アエティウス将軍は、少年時代に人質としてフン族へ送られて彼らの中で生活を送っており(少年時代のアッティラと親交があったとも、親しい人物は先王のルーアまたは別人でアッティラとは個人的な親交はなかったともされる)、以後もアッティラと良好な関係を持っていた。フン族騎兵は西ローマ軍とゴート族やバガウダエ(ガリアの農民反乱軍)などとの戦いに参加してアエティウスを助けている。さらに西ゴートと敵対し脅威を感じていたヴァンダル王ガイセリックの贈物と外交努力もおそらく、アッティラの計画に影響を与えた。 だが、アッティラに西ローマ帝国侵略の絶好の口実ができた。愛人の家令を殺され(愛人とともに謀反を企てていたとされる)、ローマ元老院議員との強制的な婚約をさせられたウァレンティニアヌス帝の姉ホノリアが、アッティラへ助けを求める書状に指輪を添えて送って来たのである。これが巷間言われるように求婚を意図していたか否かは諸説あるが、アッティラはこれを「求婚」と解釈することを選んだ。彼はこれを受け入れ、西ローマ帝国の半分を持参金として要求した。ウァレンティニアヌス帝はこの企てを知ると、母のガッラ・プラキディアの説得でホノリアを殺さず幽閉させた。彼はまたこの求婚の合法性を頑強に否定する書状をアッティラへ書き送った。アッティラはホノリアは無実であり、求婚は合法で自らのものを手にするために赴くであろうと宣言する使者をラヴェンナへ送った。 またアッティラはフランク族長死後の後継者争いにも介入した。アッティラは長男を支援し、アエティウスは次男を支援していた。451年、アッティラは従属諸族であるゲピード族、東ゴート族、ルギイ族(英語版)、スキリア族、ヘルール族、テューリンゲン族(ドイツ語版、英語版)、アラン族、ブルグント族その他を集めて進軍を開始、(歴史家ヨルダネスによる大げさな数字によれば)50万人を率いてガリア・ベルギカに侵入した。歴史家J・B.・ベリーは、アッティラが西方へ進軍した時、既に大陸で最も強力な勢力であった彼の王国はガリアから大西洋にまで及んだと述べている。 4月7日、アッティラはメスを占領した。その他の町の状況は司教を称えた聖人伝によって知ることができる。ランス司教ニカシウスは教会の祭壇で虐殺された。セレヴァティウスはトンゲレンで信者とともに助かったと推測され、同様に聖女ジュヌヴィエーヴもパリで助かっている。トロワ司教ループスはアッティラと会見をして町を救ったと賞賛されている。6月前半にアッティラはオルレアンを包囲した。 アエティウスはフランク族、ブルグント族そしてケルト人からなる軍勢を集めてアッティラに対抗すべく動いた。元老院議員アウィトゥス (en) からの使者が、西ゴート王テオドリクス1世にローマとの同盟を説得した。6月14日、アッティラはオルレアンの包囲を解いて後退を開始した。アエティウスのローマ=西ゴート連合軍がフン族を捕捉した場所は、一般にカタラウヌム(シャロン=アン=シャンパーニュ)と推定される。6月20日のカタラウヌムの戦いの結果は、ローマ=西ゴート連合のピュロスの勝利(損害の多い勝利)であった。アッティラは自殺を覚悟する程の敗北を喫して撤退したが、ローマ=西ゴート連合もテオドリクスが戦死し、アエティウスには追撃する余力がなかった。歴史家エドワード・ギボンとエドワード・クリーシーによれば、アエティウスは西ゴートの大勝利となることを敗北するのと同じくらい恐れており、彼の立場からは、テオドリクスが戦死しアッティラが潰走して撤退、ローマが勝利の利益を得ることが最良の結果だった。
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