オットー大帝の戴冠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)
「神聖ローマ帝国」の記事における「オットー大帝の戴冠」の解説
オットー1世はドイツ王(東フランク王)とイタリア王を兼ね、ベレンガーリオ1世以来40年ぶりに皇帝に戴冠されて帝位の世襲にも成功し、帝国教会政策とイタリア政策という初期帝国の二つの柱となる政策を確立した。 936年にドイツ王(東フランク王)に即位したオットー1世は融和的だった父と異なり諸侯に強圧的な態度を取った。不満を持ったフランケン公(コンラート1世若王の弟)、バイエルン公、ロートリンゲン公は、王の異母兄と弟を旗印に反乱を起こした。異母兄は戦死したが弟は許され、以後兄の片腕として忠誠を尽くした(バイエルン公ハインリヒ1世)。反乱の平定後、王は公を全て近親者にすげ替えた。公領を全て王族の支配下に置くことで王国の統一を図り、国内を固めようとしたのである。 951年、オットー1世は前年に死んだイタリア王ロターリオ2世(ロタール2世)の未亡人アーデルハイト (en) の救援要請を受けた。ロターリオ2世は現イタリア王ベレンガーリオ2世に毒殺され、アーデルハイト自身はベレンガーリオ2世の息子であるアダルベルトとの結婚を強要され、監禁されているというのである。38歳のオットー1世はイタリア遠征を敢行してベレンガーリオ2世を破った後、19歳のアデライーデと結婚した。そして、彼女との婚姻関係に基づきロターリオ2世の権威を受け継ぐ正当なイタリア王となった。ベレンガーリオ2世親子はこのときは許され、オットーの共立王としてイタリアの支配を委任された。しかしこのイタリア遠征の際に21歳の王太子シュヴァーベン公リウドルフ(ロイドルフ)が父に反発して先走ったため、親子間に亀裂が走った。 953年、王太子は義兄のロートリンゲン公コンラート赤毛公(コンラート1世若王の娘ヒキナの子で王から見て娘婿)をはじめとする諸侯とともに大反乱を起こし、王は危機に陥った。とき同じくしてマジャール人が侵入し、王はこれを逆手にとってマジャール人の侵入は王太子の差し金であると宣言した。危機感を持った諸侯は王に臣従し、王太子と赤毛公の反乱は鎮圧された。マジャール人に対しても王は955年のレヒフェルトの戦いで大勝して、その脅威に終止符を打った。この戦いで赤毛公は大きな功績を上げながらも戦死し、最期の忠誠を見せた。赤毛公のザーリアー家は以後厚く用いられ、赤毛公のひ孫であるコンラート2世はザーリアー朝を起こすことになる。 ここにきて、王は近親者による統治という政策の脆弱さを知り、教会勢力と結びつくことにする。司教や修道院に所領を寄進して特権を与えて世俗権力からの保護するとともに、司教の任命権を握って聖職者の忠誠を受け、国家行政を聖職者に委ねるのである。これを帝国教会政策)といい、初期帝国の根幹となった。 960年、イタリアでは若く世間知らずな教皇ヨハネス12世が無謀な教皇領拡大に乗り出してベレンガーリオ2世の反撃にあっていた。教皇は王に救援を要請した。翌961年に王はイタリアへ遠征してベレンガーリオ2世親子の共同王位を正式に廃位した。教皇を救った王は962年2月2日にローマにおいて教皇によりローマ皇帝に戴冠した(オットー大帝)。大帝は新たに教皇領を寄進したが、同時に「皇帝に忠誠を宣誓してからでなければ教皇職には叙任されない」と定めた。反発したヨハネス12世は敵対していたはずのベレンガーリオ2世と組み、東ローマ帝国やマジャール人とすら提携しようとした。しかし教会内部からの告発により、ヨハネス12世は大帝によって廃位された。以降の約100年は皇帝権が教皇権の上位に立ち、教会は帝国の官僚機構として利用されることとなる。 973年、オットー大帝は60歳で死去し、アーデルハイトとの子である18歳前後のオットー2世が後を継いだ。
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