オットー大公とハイエクとの親交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 04:43 UTC 版)
「田中清玄」の記事における「オットー大公とハイエクとの親交」の解説
田中は池田成彬の紹介で、汎ヨーロッパ主義者のリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと汎アジア主義者の鹿島守之助と親交をむすび、汎ヨーロッパ運動を推進していたハプスブルク=ロートリンゲン家家長のオットー大公を紹介された。オットー大公は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}戦前にオーストリア皇位継承権を放棄して[要出典]、反ファシズムを表明、戦後は欧州統合運動の推進役となった。経済学者フリードリヒ・ハイエクにはオットー大公から紹介された。田中はオットーに勧められ、1961年自由主義運動を推進するためにハイエクが組織したモンペルラン・ソサイエティーに入会した。ハイエクは社会主義とケインズ経済学の両方を批判していて、田中は、とくに人為的な信用によって一時的に景気を上昇させても、それによっておこる相対的な価格体系の混乱はやがて景気を反転させるという思想に共感していた。1974年2月10日、ハイエクのノーベル賞授賞式ではパートナー役をつとめる。メインテーブルに招かれた日本人は田中清玄だけだった。1978年、田中は来日したハイエクを伊豆の自宅に招き、奈良に付き添って刀工の月山貞一のところを訪れたり、ハイエクと人類学者・今西錦司の対談を企画。1991年12月4日にはオットーと宮澤喜一首相の会談を実現させた。
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