コンラート1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 02:43 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動コンラート1世(Conrad IあるいはKonrad I)は、ドイツ語などの君主の名前。
- コンラート1世 (ドイツ王) - コンラディン家出身の東フランク王国の王(在位:911–918年)。カロリング朝の断絶後に即位した。
- コンラート1世 (ケルンテン公) - ザーリアー家出身のケルンテン公(在位:1004年 - 1011年)
- コンラート1世 (バイエルン公) - エッツォ家出身のバイエルン公(在位:1049年 - 1053年)
- コンラート1世 (モンフェラート侯) - モンフェラート侯(在位:1191年 - 1192年)。エルサレム王国の国王に選出されるが、即位前に暗殺された。
- コンラート1世 (ニュルンベルク城伯) - ホーエンツォレルン家出身のツォレルン伯とニュルンベルク城伯。(在位:1201年頃 - 1218年・1218年 - 1260/61年)。
- コンラート1世マゾヴィエツキ - 分裂時代のポーランドの君主。マゾフシェ公(在位:1229年 - 1232年・1241年 - 1243年)。
- コンラート1世 (マイセン辺境伯) - ヴェッティン家のマイセン辺境伯。
- コンラート1世 (メラーン公)
関連項目
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コンラート1世(若王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 07:30 UTC 版)
「東フランク王国」の記事における「コンラート1世(若王)」の解説
フランケン、ザクセン、バイエルン、シュバーベンの貴族は自らを統治する王を西フランクに残っていたカロリング朝から選ぶことはせず、自分たちの中から新しい王を選出した。こうして選ばれたコンラート1世はフランク人を代表するフランケン公であったが、公たちの一人に過ぎないということでもあり、王国に権威を確立するのは困難であった。ロートリンゲンはコンラートを認めず、西フランク王シャルル3世を自らの王に選んでいた。ザクセン公ハインリヒ1世はコンラート1世に対して915年まで反乱を起こした。バイエルン公アルヌルフもまた反乱を起こし、鎮圧に向かったコンラート1世はその命を失うことになった。負傷して死の床にあったコンラート1世はザクセン公ハインリヒ1世が王として最もふさわしいと見なして後継者に指名し918年に死去した。
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