ハインリヒ1世
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ハインリヒ1世(ドイツ語: Heinrich I.)は、ドイツ語圏の君主の名。
- ハインリヒ1世「捕鳥王」(876年 – 936年) -ザクセン公(在位:912年 - 936年)、のち東フランク王(在位:919年 - 936年)。ザクセン朝初代の王で、息子に初代皇帝オットー1世がいる。
- ハインリヒ1世(920年ごろ – 955年) - バイエルン公(在位:948年 – 955年)。東フランク王ハインリヒ1世の次男で、父の死後王位を継承した兄オットー1世に対して反乱を起こし、のちに幽閉された。
- ハインリヒ1世(生年未詳 - 1018年) - オーストリア辺境伯(在位:994年 - 1018年)。彼の治世から、現在の「オーストリア」(ドイツ語:Österreich)の語源となる「Ostarrîchi」という名称が用いられるようになった。
- ハインリヒ1世「幼童伯」(1244年 - 1308年) - 初代ヘッセン方伯(在位:1247年 – 1308年)。
- ハインリヒ1世 (ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公)
- ハインリヒ1世 (ロタリンギア宮中伯)
- ハインリヒ1世 (ロートリンゲン宮中伯)
- ハインリヒ1世 (リンブルフ伯)
関連項目
ハインリヒ1世(捕鳥王)
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「東フランク王国」の記事における「ハインリヒ1世(捕鳥王)」の解説
ハインリヒ1世はフリッツラーの会合においてまずザクセン人とフランク人からのみ王として選出された。王権はフランク人からザクセン人に移ったが、そもそもザクセン人とはカール大帝の征服事業における最大の難敵でもあり、この時点で東フランク王国は「フランク王国」ではなくなったとも言える。ハインリヒ1世は他の公を服属させる必要があったが、あくまで公たちの代表だという立場を崩さないことで支持を確立し、公たちを一つにまとめあげる国家組織を作り上げた。王国の分割相続の慣例を否定し、ロートリンゲンを奪還し、マジャール人に対する防衛戦にも成功した。西フランクで起きたような王権の崩壊を防いだハインリヒ1世は、より強固な王権を息子オットー1世に残して936年6月に死去した。オットー1世は962年にローマで皇帝として戴冠され、神聖ローマ帝国の時代が始まった。ただしこの時点ではまだ単に「帝国」と呼ばれており、神聖ローマ帝国という国号になるのはさらに約300年先のことである。
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