『アングロサクソン年代記』
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「ヘンギストとホルサ」の記事における「『アングロサクソン年代記』」の解説
9世紀から12世紀に成立した9つの写本によって伝えられている『アングロサクソン年代記』によれば、449年にヴォーティガンがピクト人との戦いで助力を得ようとして、ヘンギストとホルサをブリテン島に招いた。兄弟らは各地でピクト人と戦いつつ、故郷のドイツに向けて「ブリトン人の無気力さと、土地の豊かさ」を説く手紙を書き送り、支援を求めた。これにより、さらに多くの「ドイツから3つの勢力、すなわち古サクソン人、アングル人、そしてジュート人」がブリテン島にやってきた。サクソン人はエセックス、サセックス、ウェセックス(それぞれ東、南、西サクソンの意)に、ジュート人はケントとワイト島とハンプシャーの一部に、アングル人はイースト・アングリア、マーシア、ノーサンブリアに住み着いた。特にアングル人は、その故郷であるアンゲルン半島が捨て置かれて荒れ地になるほど大規模に移動した。『アングロサクソン年代記』の諸写本のうち、11世紀に成立したウスター本(写本D)やピーターバラ本(写本E)には、ヘンギストとホルサの系譜が『イングランド教会史』とほぼ同様に(父が「ウィフトギルス」Wihtgilsとなっている)詳細に記録されているが、写本A、B、C、Fには載っていない。 『アングロサクソン年代記』455年の項によると、ヘンギストとホルサはアイルズフォードの戦いでヴォーティガンと衝突した。ここでホルサが戦死したものの、ヘンギストは息子エシュ(オイスク)とともにケント王位を獲得した。457年、ヘンギストとエシュはクレイフォードでブリトン人と戦い、「4千人を殺した」。ブリトン人はケントを離れ、ロンドンへ逃れた。465年、ヘンギストとエシュはおそらくエブスフリート近くのWippedesfleotという地で再びブリトン人と戦い、敵の指導者を12人殺した。473年、ヘンギストとエシュは「計り知れない戦利品」を獲得し、ブリトン人は「火事のようにアングロサクソン人から逃げた」という。これが『アングロサクソン年代記』におけるヘンギストもしくはホルサに関する最後の記述である。
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『アングロサクソン年代記』(The Anglo-Saxon Chronicle)
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「古英語」の記事における「『アングロサクソン年代記』(The Anglo-Saxon Chronicle)」の解説
アルフレッド大王の命により、イングランドの歴史を、1世紀頃のローマ帝国の襲来から1154年まで叙述した歴史書。散文体で書かれている。各地の修道院で編纂が行われたとされている。
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