ヴァイキングのイングランド攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 23:22 UTC 版)
「大異教軍」の記事における「ヴァイキングのイングランド攻撃」の解説
ヴァイキングのイングランド襲撃は8世紀後半から、主に修道院を標的として始まった。『アングロサクソン年代記』は、787年の項で最初のヴァイキングとの対決を以下のように記している。 “ 787年 - この年、バートリック王がオファ王の娘エアドブルガを妻とした。ノース人の3隻の船がHæretha-landから到来した。代官がその地に駆け付けたが、彼らが誰なのか分からなかったので、彼らを王の町に連れて行こうとした。そして彼らはそこで彼(代官)を殺した。これはイングランドの国々に現れた最初のデーン人だった。 ” この事件は多くの歴史家から、最初のイングランドに対する襲撃とみなされている。エゼルウェルド(英語版)版の『アングロサクソン年代記』は、代官は到来者たちに厳然とした態度で接したために殺されたのだと述べている。 793年1月8日、北東岸のリンディスファルネ(リンディスファーン島)の修道院がヴァイキングに襲撃された。『アングロサクソン年代記』はヴァイキングを「異教徒の男たち」と記している。修道院や教会は、小さくて高価な宝物を多く持っているためよく襲撃の対象となった。アングロサクソン年代記840年の項では、ウェセックス王エゼルウルフがチャーマウスに上陸した35隻のヴァイキング軍団に敗れたことが記録されている。『サンベルタン年代記』でも、同じ事件について以下のように述べている。 “ ノース人たちは、ブリテン諸島に対する大規模な攻撃を仕掛けてきた。3日に及ぶ戦闘の末、ノース人が勝者となり、各地で略奪や殺人の限りを尽くした。彼らは彼らの望む地で猛威を振るった。 ” この挫折にもかかわらず、エゼルウルフはヴァイキングとの戦いである程度の成果を挙げた。彼は851年にオクレーでヴァイキングに大勝し、『アングロサクソン年代記』は、彼の治世中に何度も勝者たちの言葉を引用している。しかしエゼルウルフに敗れたヴァイキングは、ウェセックス攻略を諦め、イースト・アングリアに標的を変え、その後も860年代まで同様の攻撃を続けた。そして860年代の後半に差し掛かった時、彼らは方針を変え、大軍でのイングランド侵攻を始めたのである。このヴァイキングの侵略軍を、『アングロサクソン年代記』は大異教軍 (古英語: mycel hæþen here / mycel heathen here)と記録することになる。
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