アングロサクソン年代記の記述と矛盾点の指摘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 16:50 UTC 版)
「ウェセックス王国」の記事における「アングロサクソン年代記の記述と矛盾点の指摘」の解説
アングロサクソン年代記(以下「年代記」と記す)によれば、ウェセックス王国はチェルディッチ(セルディック)王とキュンリッチ(シンリック)王により設立された。彼らはゲウィサエという名の氏族の首長であり、ハンプシャーに上陸、ワイト島を含む周辺地域を支配下に置いたと言われている。 しかし、年代記の記述には裏付けが乏しく、矛盾点も多い。すなわち考古学的な証拠としてはハンプシャーだけでなくテムズ川上流の渓谷地帯およびコッツウォルズ周辺にもアンクロサクソン人の定住跡が見受けられ、彼らの存在した6世紀後半から7世紀にかけてのウェセックスの中心地はむしろ後世の中心地よりも北部によりかかっていた事が指摘されている。 また8世紀後半の歴史学者ベーダは、ワイト島はサクソン人ではなく、ジュート人が上陸したところであり、またジュート人がハンプシャーの沿岸区域を占拠したとの記述を残しており、この地域はウェセックス王国が7世紀になってからようやく支配下に置いた場所に過ぎなかった事を記述している。 よってアングロサクソン年代記の記述は8世紀、9世紀に書かれた、当時の王国の勢力図に合う形で過去の起源の伝承を記載した結果の産物であるという可能性が高い。 この2人の王の名の出所は年代記の「西サクソン王国系譜目録」に記載されている。年代記は短い系譜を数多く年代別に記載されているが、前述のように矛盾も多く全ての整合性を統一できていないでいる。最近のイギリスの史学者デヴィッド・ダンヴィル(en:David Dumville)の分析によると、年代記の西サクソン王の名前に取り繕ったような形で王の名が複数まとまった箇所に存在しており-またその王の名は他の学者が史的証拠として取り上げもしていたが-実証性に足るものではない事が指摘されている。
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